「バイコフと虎」

特別編 - 1999.01.14
 「バイコフと虎」シリーズ読者の内村剛介氏から、本シリーズに関係する論考として久野公氏訳「地名研究」(『ハルビン』1998年12月25日号)を掲載してはどうかとのご提案をいただきました。幸いに、久野公氏と『ハルビン』編集部の快諾をいただきましたので、以下にシリーズ特別編として「アムール地名考」として掲載します。
アムール地名考

久野公訳

 地理名称にかんする著述を数多く出された著名な地理学者で本誌創刊以来の常時寄稿家であるエドゥアルド・マカーロヴィチ・ムルザーエフ(Эдуард Макарович Мурзаев)氏が六月一日で満九十歳を迎えられる。

 『ロシアのことばづかい(Русская речь)』誌編集部一同は衷心から同氏のご長寿をお祝い申し上げるとともに、ますますのご壮健を願い、今後さらにながく実りある創造をなされますよう、そして本誌へのご協力をも賜わりますよう、せつにお願い申し上げる次第である。

●アムール(黒龍江)

E.M.ムルザーエフ(地理学博士)

 ロシア極東に滔々と流れる大河アムールがある。その水源は東シベリアおよび中国北東部とモンゴルにある。アムール本流はシベリアのシルカ河と満洲のアルグン河の合流点以降をいう。この両河川名の起源はかなりはっきりしており、シルカ(шилка)はエヴェング(旧ツングース)語のシルカすなわち「谷、峡谷」に由来し、アルグンはモンゴル語のエルゲンすなわち「広い」に由来している。

 アムールはかなりの長距離にわたってロシアと中国の領土を分かつ国境の河である。

 通常アムールの長さはシルカ河とアルグン河の合流地点から起算されており、同地点からオホーツク海のアムール潟までの二九二四キロである。もしこれにアルグン峡谷を加えれば、アムールの延長は四四二四キロになる。比較のためにいうと、ヴァルダイ高原からカスピ海までのヴォルガ河の総延長は三五三○キロである。ヴォルガはヨーロッパ最大の河だが、しかしシベリアの各大河よりだいぶ短い。水量ではアムールは国内でエニセイ河、レナ河、オビ河に劣るだけである。

 アムール流域に定住する諸民族はアムールのことをいろいろに呼んでおり、モンゴル人はハラ・ムレン(Хара―Мурен)、すなわち「黒い河」(モンゴル語の“ハラ”は「黒い」、“ムレン”は「河」)という。中国人はアムールというコトバを知らず、ヘオシュイ(Хэйшуй)、ヘイヘ(Хэйхэ)、ヘイルンツジャン(Хэйлунцзян)と呼んでいるが、ここでもヘイ(хэй)はやはり「黒い」であり、シュイ(шуй)は「水」、ツジャン(цзян)は「水量ゆたかな大河」の意である。ファンヘー(Хуанхэ 黄河)および中国最大の河ヤンツズイツジャン(Янцзыцзян 揚子江)と比較してみよう。中国の“ルン”は「伝説上の生きた物、水の主、水元素」であり、原初はどうやら単に「自然界の水〜海水、湖水、河水」であったらしい。満洲族にはアムールはサハリャヌーラ(Сахалянула)「黒い河」として知られている。『ツングース・満洲語比較辞典』(一九七七・第二巻)には同一語源の単語サカリン(Сакарин)「黒い」と満洲語のサハリャン(Сахал’ян)「黒い、暗色の」がいっしょに出ている。

 上記いずれの言語においてもアムールなる名称には「黒い」(чёрный)という定義がある。なぜだろうか? この問にいまのところ明確な答はない。アムールの水だって色としては別にほかの河川の水と変りはないのだ。おもしろいことにロシアの河さらに広くスラブの河には「黒河」という河川名は多々あるが、しかしそのなかに大河はひとつとしてない。ところがこのアムールたるや滔々と流れる雄大な大河である。

 しかしながら考えてみると東洋の言語のなかには「黒い」というコトバが多くの意義をもつものもある。たとえばチュルク諸語ではカラ(кара)はほかにも「多量、豊富、主要な、偉大な、大地」などを意味するし、カラス(карасу)は「地中からの湧泉水」、カラハカン(карахакан)は「偉大なハン」の意である(カラハン Карахан という苗字もある)。遠い過去には「黒い」というコトバは多くの他の言語にあってもいくつかの意義をもっていたとも考えられる。しかしもっとかんたんな説明もつくようで、「黒い」という形容詞はいろんな言語でいうアムールなる名辞のばあい、その水理学的河況の謂であるということだ。春およびとくに夏の増水期にはアムールは冠水流域部分や低河岸段丘を広大な範囲にわたって冠水する。そのとき洪水は峡谷の住民にとって恐怖の的となり、アムールは「災いの」(злая)河という意味での「黒い」河なのである。

 アムールの河川名の起源については一再ならず書かれ議論もされている。つぎの著作を指摘しておこう。L.リセス(Ришес)の『アムールの名称の起源について』(一九五一)とシベリア・極東開発史の研究家B.P.ポレヴォーイ(Полевой)の『アムールはモスクワのコトバ』(一九七九)および『アムールおよびバイカルという名称の真の起源について』(一九八四)がある。

 L.リセスはツングース・満洲語で河川名に用語(テルミン)の使い分けがあり、ビラ(бира)は「小さな河」、アムール(амур)は「水量豊かな大河」だという点に注目した。もうひとつ「中くらいの大河」をさすオカート(окат)という語もある。このテルミンは歴史地理学上よく知られている極東のオホータ(Охота)河の名に残っている。まさにこの河によって何十年の長きにわたりヤクーツク・オストローグ(Якутский Острог)から 太平洋岸に至るもっとも重要な交通路が開けていたのである。河川名オカート(Окат)および(ロシア語の発音で)オホータ Охота 河は労働者集落オホーツク Охотск およびオホーツク海という名称となって再現されている。こうして比較的小さな河が広大な海域の名付け親ともなったのである。L.リセスはアムールという河川名をエヴェン(Эвен)人のいうアマール(амар)と結びつけた。ことわっておくが、こういう語形変化はアルマン方言だけに認められるものである。ときに、イワン・モクスヴィーチン率いるカザック探検隊もこの河川名を Амур/Омур なる語形変化で耳にしている。

 B.P.ポレヴォーイはアムール河の名称とそれが次第に世界地理名称一覧のなかに定着していった経緯を詳しく語っている。ロシア探検家たちがアムールの存在を知ったのは一七世紀前半であった。当初アムールはシルケル(Шилкер)、シリカル(Силькар)、シリキル(Силькир)、チルコル(Чиркол)すなわちシルカ(шилка)など、さまざまな名称でよばれていた。

 一六四五年トムスクのカザック、イワン・モスクヴィーチンは道案内の女たちの話から、どこかに大きな河が流れていて、それを舟で下って行けば「海洋」にまで到達できることを知った。しかしそのときはついにその河を見ずじまいにおわり、やっと一年後オホーツク海の沿岸を調査中にアムールの河口を発見した。オホーツク海は当時ラム海(Ламское)とよばれていた―ツングース語のラム/ラムー(Лам/Ламу)「海」からきた名称である。廃語となった民族名称ラムート(Ламут)「沿海住民」、現在のエヴァン人もこれに由来する。

 アムールという名の起源については議論があった。その根底にはモンゴル語のアマール(амар)「静かな、おだやかな」というコトバがあると考えるものもあった。しかしすでに述べたとおり、極東でもっとも大きなこの河のことをモンゴル人はハラ・ムレン(Хара―Мурен)とよんでいる。また別に、ブロークンなナナイ語のマングムー(Мангму)、エヴェンキ語のマムール(Мамур)からきていると見る向きもあった。しかしながらことわっておくが、モスクヴィーチンの道案内をしたエヴェンキの女たちはアムール/オムール(Амур/Омур)だといって彼にその話をしたのである。

 一六四三年ヤクーツクでワシーリー・ポヤールコフを隊長とする大探検隊が仕立てられた。彼は「行きて皇帝陛下の宗旨をひろめ行く先々に柵を立てて防備を固めるべし」と命ぜられた。ポヤールコフの部隊はゼーヤ海をアムールに向って下った。彼はアムールをゼーヤ海の支流だと考えた。彼にはゼーヤ海の方が水量ゆたかな河に思えたからである。ポヤールコフがアムールという名を聞いたのは下流の方にいたって、右からウスリー(Уссури)河が合流した以後のことであった。アムール下りは部隊がアムール下流域の地理と民族文化を見聞した越冬(一六四五〜一六四六)をもって完了した。六月には部隊はヤクーツクに戻った。こうしてアムールの大航行は終了した。

 のちにこの地にエロフェイ・ハバーロフが定住した。一六五九〜一六五二年に彼はシベリアを大旅行してプリアムーリエ(アムール河中・下流域)にながく滞在した。彼の名はハバロフスク市、ハバロフスク地域、鉄道のエロフェイ・パーブロヴィチ駅などの地名に残っている。

 総じて、長大な河川がその流域に住むさまざまな民族の言語によってそのよび名を変えるのはよくあることで、これは他の国や地域の河川名称にもよく見られる特徴である。アムール(Амур)という名称の現在一般に定着した語形の根拠となるキーワードは、ソロン(Солон・訳注―ツングース満洲語族の一種族)語の普通名詞アムール(амур)、エヴェン語の語形アマール(амар)だと考えるべきである(ツングース満洲語比較辞典、一九七五、VOL.1)。こう断定しても、いろんな場所でいろんな名称があるという状況に矛盾するものではない。

 アムール下流域に定住する民族がすべてツングース満洲語族でないことも指摘しておこう。たとえばニヴフ(нивх・旧称ギリヤーク гиляк)族は旧アジア少数諸民族の言語、さらには北アメリカインデアンの諸言語ともある種の共通点を有する言語で話している。

 卓越した学者で綿密周到な探検家ニコライ・(ミレスク Милеск)・スパファーリー(Спафарий)(一六三六〜一七○八)に世界は感謝しなければならない。彼は有名な『大河アムール記(物語)』を執筆したが、本書こそ著名なオランダの地理学者で地図作成者ニコライ・ヴィッセン(Витсен)により一六九二年に発表されたアムール河の最初の印刷著作物の底本となったものである。「モスクワのコトバ амур(アムール)が全世界に知られるにいたったのは、まさにこのおかげなのである」(ポレヴォーイ、上記物語)。

 アムールという河川名はロシアの地理ひいては世界地理に贈られたツングース諸民族のプレゼントなのである。



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