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『絵入り年代記集成』が描くアレクサンドル・ネフスキーとその時代 全2巻


栗生沢猛夫編訳著


ISBN978-4-86520-057-7 C0022
A5判上製 本文横組 第1巻カラー295頁+185頁 第2巻512頁 貼函入
定価(本体12000円+税)(2巻セット)
2022.04

ロシアの英雄アレクサンドル・ネフスキーの実像とは? 『絵入り年代記集成』(モスクワ国家の公式的大図解年代記)はアレクサンドルとその時代をどう描いているか。296枚の極彩色の絵(ミニチュア)と年代記テクストから探っていく。絵は、中世ロシア人とドイツ人、スウェーデン人、モンゴル人などとの戦いの様子、また当時の生活の諸局面(結婚、出産、死)や天変地異(地震、洪水、旱魃、天体現象)、災害(火災、飢饉、疫病)などが生々しく描かれる。それを描かせた、そして描いた人々の思惑、そこから立ち現れてくる歴史の実像に迫る。付録にヘンリクス『リヴォニア年代記』(部分訳と訳注)を含む。

……プスコフ市が1993年7月に近郊のチュード湖畔に巨大なネフスキー記念碑を建てている(武装する歩兵の一団の中心に甲冑に身を包んだ、高さ20m超のネフスキーの騎馬像)。経済的危機の真っただ中にあった1990年代前半のロシアの一地方都市がこのような規模の記念碑を建てたということは、新生ロシア共和国と都市プスコフが人々の脳裏に形成されてきた「アレクサンドル」像にいかに大きな意義を認めていたかを物語っている。

 1995年にはノヴゴロドにも新たな、中世風の鎧兜に身を包むアレクサンドルの胸像が建てられた。実はこれはノヴゴロドでは三番目のアレクサンドル像であった(最初は1959年に設置されたヤロスラフ館付近の胸像。第二は1984年のヴォルホフ川沿いのプロムナード上ボリス・グレープ教会近くの銅像である)。1995年の胸像はノヴゴロド駅前広場に設置されたが、そこには2年前まではカール・マルクスの胸像があったという。この第三のアレクサンドル像は新生ロシア国家のシンボル上の担い手の交替を見事に象徴していた。

 これらプスコフとノヴゴロドの二つのアレクサンドル像は純然たる世俗的なアレクサンドルを表現していた。これに対し2002年にサンクト・ペテルブルクのアレクサンドル広場に建てられた騎馬像は銘板の献詞が示すように、「聖なる信仰篤きアレクサンドル」に捧げられていた。台座上の大きな十字架もそのことを雄弁に物語っている。先述のF.B.シェンクはこの騎馬像をプラハの有名なヴァーツラフ像を想起させると書いている。アレクサンドルを記念する同様の像は、さらにいくつかの例を挙げるならば、1993年ヴォルガ河畔のゴロジェツ(アレクサンドル崩御の地)にも、またクルスク(2000年)、レニングラード地区のレーニン村(2000年)、ウスチ‐イジョラ(2002-2003年)、ウラジーミル(2003年)等々にも建造されたという。こうしたアレクサンドル公顕彰の流れはその後も続き、本書出版前の校正段階においても、生誕800年祭を祝うさまざまな企画が目白押しのようである。2021年9月11日には、プスコフ州の新記念館(『アレクサンドル・ネフスキーとその部隊』像)の除幕式にプーチン大統領自身が出席したと報じられている(駐日大使館9月12日ツィート)。

 アレクサンドルが今日ロシアでもっとも愛される国民的英雄である理由は、それが国家と社会の各方面から全面的に肯定的な人物とみられていることが大きいが、やはり早くから聖人として正教会の崇拝を受けてきたことが重要であろう。かれはほとんどまったく瑕疵のない(実は上述のように、そうではないのであるが)、どの面から見ても尊崇されるべき正教と国家の守護者、国民統合の象徴とする、長い間に作られてきたイメージが大きいのである。今やかれの名は直接的にはその歴史的生涯とほとんど関係ないところでも人気の的である。その名を冠した文学賞、さまざまなスポーツ競技のアレクサンドル・カップも見られるという(たとえば「氷上の戦い」の勝者を記念するアイスホッケーの「アレクサンドル杯」、プスコフにおける自動車ラリーの同カップ、さらにはスポーツ射撃やサンボ競技などにもあるという)。かれの名はいまやヴォトカの商標名にも登場している。あるキックボクサーは自伝の筆名としてかれの名を使用しさえしているという。聖人アレクサンドル像の世俗化、通俗化、究極的には脱歴史化が進展しているのである。

 歴史研究がこのような状況を押し止め、また変えることはできないかもしれない。アレクサンドルの名がたんに人々の関心を惹きつけるためだけの符丁として用いられるだけならば、何も事を荒立てる必要はないだろう。しかし人々を一定の枠組みの中に押し込め、異論を封じる手段となすべくその名を利用しようとする、その時々の指導者層の思惑についてはどうであろうか。とりわけ昨今の、「事実」を軽視しその存在そのものを否定するかのごとき風潮の蔓延するなかでは、研究者がその最低限の務めを怠るなどは許されることではないだろう。もとより史料を読めば「事実」に到達するなどと言うつもりはない。現実は複雑であり、記述者の視点も多様である。史料に「事実」が書かれている保証はない。書き記されたことはほんの一部にすぎず、ほとんどすべてが沈黙の闇に閉ざされたままである。史料を手に取る側の問題もある。とりわけグローバル化の著しい現代においては価値観が多様化し、過去に対する認識もおのずと各自各様である。「事実」に至ることが絶望的に困難であることは否定すべくもないのである。だがそれでもこれを求めることと、そうした営為を無意味と決めつけ、むしろ神話や伝説(それらの誕生の様相がどうであれ、ある意図のもとに増幅、継承されてきたことは明らかである)、またそれらに基づく民族の伝統をこそ重視すべきとする主張との間には無限の隔たりがある。本著者は歴史研究の意義がここでも問われているのだと自戒の念と共に考えている。

(「解説に代えて」より)


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