リレーエッセイ

第45回 - 2002.01.01

拙著その後

土肥恒之

 昨年つまり2000年の3月に「20世紀ロシアの歴史学とその周辺」という副題を添えた『岐路に立つ歴史家たち』という小著を出した。成文社からではないから、この場に相応しくないかもしれないが、拙著出版後の「ささやかな波紋」を記すことにしたい。

 拙著には幸いにして幾つかの書評が寄せられた。直接お礼を申し上げる機会がないまま過ごしてきたので、以下に私の目に止まり、あるいは教えられた長短5本の書評を記して謝意を表することにしたい。山内昌之(『毎日新聞』2000年5月7日朝刊)、内田健二(『週間読書人』2000年5月19日号)、亀山郁夫(『学鐙』97巻9号、2000年9月)、田中陽児(『ロシア史研究』67号、2000年10月)、小島修一(『社会経済史学』67巻1号、2001年5月)の諸氏であり、まずは厚くお礼申し上げたい。けれどもどうにも承服しかねる指摘や批判がある、というのが書評に対する多くの著者に共通する姿勢であろう。誰にも譲れない主張といったものがあるからである。けれども私の場合はいささか異なる。指摘された難点はいずれも的確で、尤もであったし、多少の思い入れを込めて書いた個所については過分の評価を戴いて赤面の至りである。だからここで何か言うつもりは全くない。むしろもっと事例を書き込んで論旨を補ったり、最後まで粘り強く添削をするという努力に欠けていて、この辺で「もう、いい」と放り投げてしまう習性を反省するのみなのである。

 拙著は長く暖めてきたテーマではあったが、ソ連邦崩壊後の史学史の見直しというロシア歴史学会の動向に支えられている。というよりもそれヌキには到底書かれなかったであろう。そこでその後の研究動向だが、この動きはますます活発で、この二年足らずで優に十本を越える専門書が刊行されている。まず二巻本の『歴史家たちのポートレイト。時代と運命』は「祖国史」と「世界史」の研究で大きな業績を挙げたロシア人歴史家の列伝である。また『ロシアの歴史家たち。伝記』も約900頁の大冊であるが、同じく『ロシアの歴史家たち。戦後世代』の方は小冊子である。他方でプラトーノフ事件解明の口火を切ったブラチョフは『「我が大学のロシア史学派」とその運命』を著わして、ペテルブルク大学の歴史学の歴史を検証した。また『歴史家と時代。20世紀20-50年代。ア・エム・パンクラ−トヴァ』はこの歴史家についての証言と資料を収めている。その他にイギリス中世史家グ−トノヴァの自伝『来し方』などもあり、枚挙に暇がないとはこのことである。そうしたなかで私個人にとって印象深い本というと、旧レニングラード大学教授のA・G・マニコフの『30年代の日記』である。というのは彼の重厚な著書(1962)は私が訳も分からず最初に取り組んだ書物であり、その仕事をなんとか理解したいものだと「研究ノ−ト」まで書いた歴史家その人であるからである。もちろん表面をかすっただけだが、この著者についてはその後も関心を持ち続けていた。彼が1951年に出した『16世紀ロシア国家の価格とその変動』はフランス語訳も出たが、これはあの「アナ−ル学派」の動向と関わるものだろう。その後はほとんど17世紀農奴制についての法的な研究に専念している。雑文などもまったく書いていない。だから数年前に彼の日記の一部が『ズヴェズダ−』誌に紹介されていると知ったときは、機会を見つけて雑誌が所蔵されていた北大の図書館でコピーさせてもらった。その日記が小さな本として先頃刊行されたのである。「ペテルブルクの学者たちの日記と思い出」のシリーズの一冊であるが、具体的には1933-34年と1938-41年の日記である。彼は1913年生まれだから20代ということになる。付録として「学問への道」が新たに書かれたが、これは短いものである。いま時々興味津々といった思いで読んでいるが、この話は別の機会にしよう。ともあれロシア史学史研究の活況は目を見張らせるものがあると言えるだろう。

 ところで拙著は第3章でソヴィエト史学の国際舞台へのデビューとなったオスロでの国際歴史学会議の模様について触れている。1928年8月のことである。そのオスロで2000年8月に再度同じ会議が開かれるという情報は早くから届いていた。この機会を逃す手はない。といっても動機は不純で、北欧観光のための口実としてである。こうして会議に合わせて8月初旬に酷暑の東京を離れて2週間程の家族旅行にでかけた。オスロの気候は生まれ故郷の北海道に似て涼しく爽やかで、実に心地がよかった。教会見学の後でその前の露店でもとめたイチゴは粒が大きく、とても美味しかった。会議の方は郊外のオスロ大学で1週間にわたり多くのセッションがあったが、私は1日だけイッガ−ス教授の主宰する史学史のセッションに出てみた。「歴史の利用と悪用そして歴史家の責任」というもので、日本人やロシア人を含む多くの報告があった。こちらの方はイチゴのようにすぐに消化はできないが、会議の模様は『歴史学研究』750号に特集されている。その他に旅の「収穫」としてはたまたま立ち寄ったコペンハーゲンの国立博物館でイヴァン雷帝のあの有名な肖像画(成文社の『イヴァン雷帝』のカヴァー絵)に出会うという予期せぬことが挙げられる。ストックホルムはいわずと知れた大都会だが、宿泊したホテルの窓からはバルト海クルーズの大型船が出入りするのが見えた。時間がなくて断念したが、その代わりウプサラまで足を延ばした。北欧随一の教会やリンネの博物館などを見たわけだが、ここウプサラにはあのケンペルも滞在したことがある。オランダ東インド会社の医者として長崎出島に滞在しただけでなく、『日本誌』を著わしたケンペルのそもそもの出発地はストックホルムであった。そればかりではない。彼は途中でモスクワに立ち寄り「二人のツァーリ」、つまりイヴァン5世とピョートル1世に接見していて、その記録を残しているのである。

 話が取り留めもなくなってきたので、この辺で打ち切ることにしよう。拙い書物だが、ささやかな旅の思い出のきっかけを作ってくれたのである。


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