リレーエッセイ

第36回 - 2001.01.04

やっぱりドヴラートフが一番!


――『かばん』邦訳刊行に寄せて――

沼野充義

かばん
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 セルゲイ・ドヴラートフ(1941−1990)の『かばん』の邦訳が、ペトロフ=守屋愛さんの訳で昨年12月に出た。ドヴラートフの邦訳は、同じく成文社から刊行された拙訳『わが家の人びと』に次いで2冊目になる。『かばん』の解説にも書いたことだが、ドヴラートフとは、どちらかの極に走ったりすることも、全体主義やユートピアの誘惑に屈することもなく、不完全で不条理な現実を憎み呪いながら、しかし自分もその不完全な世界に属する不完全な者として現実に対する愛着を失わず、大きな悪いものを壊そうとするよりも、小さないいものを守っていこうとした作家だった。そんな希有の作家の一番いい味が出ているのが、『わが家の人びと』と『かばん』の2冊ではないかと思う。その意味ではこの2冊はドヴラートフの代表作であり、この2冊を読めばこの作家の魅力的な顔がはっきり見えてくるはず。現代ロシア文学の翻訳紹介が低調になる一方の最近の日本としては、ドヴラートフのような現代ロシア作家の紹介が1冊で立ち消えにならず、2冊目も続いて出たということじたい、なかなかの快挙と言えるだろう。

 とは言うものの、『わが家の人びと』が出てから早くも3年の月日が流れてしまった。その間には個人的にも、またドヴラートフをめぐってもずいぶん色々なことがあった。ペテルブルクでの第1回ドヴラートフ国際学会、ドヴラートフをめぐる数々の批評や研究の出版、ドヴラートフを個人的によく知っていた批評家ピョートル・ワイリやアレクサンドル・ゲニスとの何度かの出会い……。『かばん』の訳者の姓も、ただの守屋から、ペトロフ=守屋という立派な複合姓に変わった。東京大学の大学院に入って以来、一貫してドヴラートフを研究してきた守屋さんの夫君となった若々しいペトロフ氏は、ドヴラートフと同じペテルブルクの産、ここにもまたドヴラートフの取り持つ縁がいくらか作用しているようだ。ちなみに、個人的な思い出と批評的言説が見事に溶け合ったアレクサンドル・ゲニスの名著『ドヴラートフとその周辺』には、冒頭に、「どうしてドヴラートフの研究者には、どこの国でも、すらりとした美女が多いのだろうか。やはりドヴラートフには何か特別な魅力があったのだろうか」といった趣旨の少々ねたましげな感慨が出てくるが(いま、手元に本がないので、引用はおおよその趣旨である。多少字面とは違っているかも知れないが、ぼくが確かにそのような趣旨として記憶していることは事実である)、ゲニスにそんなことを思わせた張本人の一人が、守屋愛さんだったということを、ぼくはよく知っている。

 そして、偶然にも、『かばん』の邦訳が出たのは、ドヴラートフ没後の10年にちょうどあたっていた。死後10年、ドヴラートフもいまや堂々たる現代の古典、といった趣がある。本国ロシアでは、1993年に出た3巻著作集(ペテルブルク、リンブス・プレス刊)に続いて、2000年にはより充実した4巻著作集(ペテルブルク、アズブカ社刊)が出て、その著作の全容はほぼ読者に明らかになっている。現代の作家で、これほど短期間に2度も著作集が出るということじたい(著作の総体があまり大きくないという事情もあるが)異例なことである。このことからも、いかにドヴラートフが現代ロシアで多くの読者に愛読されているか、よくわかる。10年も時間が経つと、えたいが知れず、なんだかふわふわ居心地悪そうにしていたものも、落ちつくべきところに落ちつく、ということだろう。死後10年にちなんでロシアの批評家やドヴラートフの友人が書いた文章を眺めていても、彼をもう現代の古典と見なす論調が目立った。このことは『かばん』の解説に書いたので、詳しくは繰り返さないが、アレクサンドル・ゲニスも言うとおり、いまやドヴラートフがある意味ではとてもまともな人間、心を安らげてくれるまともな数少ない作家のように見える。それは無論、わけのわからない奇矯なもの、激しいものを書くポストモダン作家たちの活躍を背景にした結果である。生前、ソ連では公認されざる亡命作家だったころのドヴラートフは、主流文学の規範からはずれた、とぼけたボヘミアンのような、何やら「変な」存在だった。その後のソ連・ロシアの激変を経て、文学や芸術のめまぐるしいありとあらゆる実験をくぐり抜けたいま、かつて「変」だったドヴラートフが、確かにゲニスの言うとおり、一番まともに見える。ドヴラートフがいまや「落ちつくべきところに落ちついた(ように見える)」のは、この10年の現代ロシア文学の変化がそれだけ劇的に激しかったからにほかならない。

 現代だけでなく、古典も含めて、ロシア文学全体を見渡したとき、ドヴラートフのようなスタイリストが際立って見えるのは、一つには彼の文章の「簡潔さ」のせいである。ロシア人は言葉の民、ドストエフスキーやガルコフスキー、あるいは市井で日々繰り広げられる(あくまでも言葉のレベルでの)口喧嘩などを思い浮かべただけでもすぐにわかるが、ほんのちょっとしたことをめぐってロシア人はあきれるほど多くの言葉を費やす。だからこそ重厚長大な長編小説が次々に生み出されたわけだが、ドヴラートフの「ラコニズム」(簡潔さ)はその正反対を行く。『かばん』にしても、旧ソ連時代の思い出の詰まった「かばん」の中身を一つずつ紹介していくという趣の連作短編集なので、この素材からはソルジェニーツィンの『収容所群島』張りの巨編をつむぎ出すことも出来たはずなのだが、ドヴラートフは個々の挿話を一口話の鮮やかさでさっと切りとっていく。なかなか見事な包丁捌きである。

セルゲイ・ドヴラートフ
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 一見面白可笑しい話を気軽に書いているだけのようにも見えるドヴラートフの文章が、隅々まで神経の行き届いた繊細な細工品になっているということも、『かばん』の解説で強調しておいたが、ここではその主張を補強するために、ヨシフ・ブロツキー(1987年度ノーベル文学賞受賞詩人)に登場してもらおう。彼はドヴラートフを追悼した文章の中で、こんなことを回想している。若き日にレニングラードでまだ小説家として世に認められていないころ、ドヴラートフは自分の書いた小説をよく詩人のブロツキーやナイマンのところに持ってきては批評を求めた。ブロツキーもナイマンもかなり辛辣な批評をしたし、そもそも詩人のところに小説を持ってくるというのもおかしな話だったが、ドヴラートフはそれでも彼らに自作を見せることを止めなかった。それはたぶん、「小説というものも詩によって測られなければならない」という無意識の感覚がドヴラートフにあったからではないか。「セリョージャ(ドヴラートフ)は何よりもまず素晴らしいスタイリストだった。彼の小説は何よりも語句のリズム、著者の話術のカデンツァによって成り立っている。それは詩として書かれている。そこではプロットの果たす役割は2次的なもので、話をするためのきっかけに過ぎない。それは語りというよりはむしろ歌のようなものだ……」(『ズヴェズダー』1992年第2号)

 ここでブロツキーを引用したのは偶然ではない。ブロツキーが難解な形而上的抒情詩を書く天才として普通の人たちのはるか上にいたのに対して、ドヴラートフはわかりやすく誰にでも親しめるユーモア作品を書き、普通の人々と常に同じ高さのところにいた。そういう意味でこの二人ほど対照的な存在はなく、実際、ドヴラートフがブロツキーのことに言及する際には、天才的な友人を引きたてるいくらかずっこけた存在として自分を意識していた節があるのだが、ブロツキーはドヴラートフと同じペテルブルクの出身で年齢もドヴラートフとほとんど同じで、個人的にもかなり親しかっただけでなく、ペテルブルク(当時レニングラード)からニューヨークへ亡命したという人生行路まで同じだった。さらにこの二人の言葉に対する態度を比べてみると、意外にもかなり共通するものが感じられる。それは結局、二人とも、ぺテルブルク的な洗練された感覚によって、それぞれが自分なりのやり方でロシア語の可能性を極限まで追求したということだろう。その意味では二人とも、一見伝統的なロシア文学から遠いところにいるようでいて、じつは深く「ロシア的」な文学者だったのである(なお、ブロツキーとドヴラートフについては、週刊朝日百科『世界の文学』78号[2001年1月21日号]に二人を並べて書いてみたので、あわせて参照していただければ幸いです。ちなみにこの号はぼくの責任編集で、戦後のロシア東欧文学に焦点を合わせたものになっています)。


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