リレーエッセイ

第35回 - 2000.12.01

『新編 ヴィーナスの腕』に寄せて

飯島周

新編 ヴィーナスの腕
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 この詩集は、一九八四年度ノーベル文学賞受賞者、チェコの詩人ヤロスラフ・サイフェルト(Jaroslav Seifert 一九〇一〜八六)の作品選集である。この原型は、一九八六年に桐原書店から発行されたが、今回は装いを改め訳詩の増補改定を加えて、成文社から出版されることになった。

 作者のサイフェルトについては、すでにいくつかの紹介がある。ある程度全体的に説明したものとして、訳者による「多面体の結晶――J・サイフェルトの詩作の発展――」(『詩と思想』一九八九年九月号、土曜美術社)や本詩集の解説などを参照下されば幸いである。

 作品の量は膨大で、二一年の処女詩集『涙の中の町』から出発し、生前に刊行された作品集だけで四十以上になる。この間には作風の変化が何段階もあり、初期の素朴なプロレタリア詩、技巧に富んだポエティスム、古典的完成に達したとされる定型詩、洗練された抒情詩、さらに最終期の瞑想や告白を内容とする自由形式の詩体など、多彩な様式が駆使されている。従って、どれが代表的なタイプか決定するのは難しい。

 さらにサイフェルトは、激動の二十世紀の中欧の小国家を背景として、政治的圧力にも対抗せざるを得なかった。とりわけ、四八年以降は共産党政権の方針に反対し、特に六八年の「プラハの春」圧殺後は、国内での新作発表は禁止され、地下出版又は国外での出版以外は許されなかった。この結果、「反体制の詩人」という呼名が与えられた。

 ただし、チェコ国民の間での評価は圧倒的で、国家賞や国民芸術家の称号を得、ノーベル賞候補指名三回目に受賞者となった。

ヤロスラフ・サイフェルト
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 前述のように、作品は多種多様であるが、一貫したテーマは、青春時代に参加した前衛芸術家グループ「デヴィエトシル」に共通の精神、すなわち「この世の美しきものすべて」、特に女性の美と自由に対するあこがれ、エロスとタナトスの絡み合いを、日常的な言葉で表現しようとする努力だと思われる。この点について、訳者はかつて「バラと涙の詩人」と表現したことがある。

 この詩人についての訳者の関心は、チェコの有名作家J・シュクヴォレツキー夫妻主宰の「六八出版社」が八四年に発行した詩集『ヴィーナスの腕』を手にしたときに一気に高まった。(同社はいわゆる亡命出版社で、チェコ国内における発禁作家の作品を精力的に出版していた。サイフェルトの回想記『この世の美しきものすべて』も、同社の発行である)。同名の詩集は、すでに三六年に出版されていたが、八四年の詩集は、それまでのすべての作品の中から選ばれたもので、全部で一八〇編にも及ぶアンソロジーである。全編を通読して、この詩人の魅力にめざめた、と言ってもよい。ただ、その魅力をどれだけ日本語で表現できたかはおぼつかない。

 「ベルリンの壁」と共に社会主義諸国は崩壊し、さらに「この世」特にわが国全体がIT革命に狂奔し、言葉が荒廃しつつある現在、「ヴィーナスの腕」はやはり幻のままで終るのだろうか。


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