リレーエッセイ

第33回 - 2000.09.17

ついに大ウースチュクとトーチマを訪ねました

安井亮平

大ウースチュクの町並み(ミーシャさん撮影)
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 ついにこの夏、北ロシアの古い町、ヴェリーキー(大の意)・ウースチュクとトーチマとを訪ねることができました。大ウースチュク近郊で生まれ育ち今はヴォログダに住む友人のミーシャ・カラチョーフさんから、10年来誘われていたのが、とうとうこの7月に実現したのでした。初めてロシアを訪れた児童文学者の加藤多一さんも同行しました。確かにミーシャさんの自慢するだけあって、大ウースチュクは、古い町並みがそのまま保存された美しく風格のある町でしたが、しかしなにか寂しく悲しく感じました。

 ヴォログダの町中を流れるヴォログダ川はほどなくスホーナ川と合流します。スホーナ川の下流、ヴォログダから200キロほどの所にトーチマがあり、さらに280キロ下った所に大ウースチュクの町があります。スホーナ川は大ウースチュクの町外れでユグ川と合流して(ウースチュクとは、「ウースチエ ユーガ〔ユグの合流点〕」に由来します)、大きなセーヴェルナヤ(北の意)・ドヴィナ河となり、やがて白海に流れ込みます。アルハンゲリスクはその河口に位置します。

 ヴォログダからトーチマ、ニコーリスクを経て大ウースチュク、コートラスまで、見事に舗装された国道が通っていますが、それですと、迂回しているために、ヴォログダからトーチマまで220キロほど、大ウースチュクまでは615キロほどの距離になります。

 16〜18世紀にかけて、ヴォログダ川――スホーナ川――北ドヴィナ河のルートが、オランダやイギリスとの交易の水路として利用され、その上16世紀末からはシベリアへの通路となったので、大ウースチュクやトーチマが繁栄したのでした。

 しかし、ピョートル大帝以降バルチック海の開発が進むにつれて、ヨーロッパ諸国との交易ルートとしての意義を次第に失い、それに、シベリアへのルートもまた南下したために、大ウースチュクとトーチマは、発展から取り残されることとなりました。19世紀に入ると、ウラルやシベリアとロシアの南や西の港を結ぶルートを、完全にヴォルガ河に奪われ、さらに大ウースチュクとトーチマは、鉄道網からも外れてしまいました。

 ソビエト期になってからも開発計画からもれたために、かえって16〜19世紀の姿が今日までほとんど無傷で残されることになったのでした。

対岸より見た大ウースチュク(ミーシャさん撮影)
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 大ウースチュクの旧市街には、ソビエト期の画一的で無粋なコンクリートの建物はただ一つあるだけで、それ以外は古い町並みを保っていますし、トーチマも旧市街はほぼ完全に17〜19世紀の姿を残しています。

 1〜2階建ての木や石造りの民家の上にそびえ立つ教会、川沿いの大商人の豪邸という町のシルエットは、両市に共通します。スホーナ川の対岸(右岸)に立つと、町の全貌が眺められて、ことに美しい。当時の富と文化の高さがしのばれます。

 大ウースチュクはヴォログダにつぐ交易の中心であっただけに、トーチマよりもはるかに規模が大きい。大ウースチュクの黄金時代であった17世紀や、18世紀のウスペンスキー大聖堂、主の昇天教会、ミハイロ・アルハンゲリスキー修道院、主の迎接教会などなどが、屹立しています。大商人の豪邸もまた立派です。

 この町のシルエットは実に美しいのですが、しかしさらに近寄ってみると、それらの建造物がソビエト期に全く放置されていたため、破損のはなはだしいものが目につきます。現在さかんに修復されつつありますけれど。

 かつて船やはしけやいかだで賑わったスホーナ川には、ひとつの船影も見られませんでした。わずかに子どもたちが泳いでいるだけです。休日というのに河岸通りを散策する人もごくまれです。町にも川にも活気が感ぜられません。それで、なにか寂しく悲しい感じを起させるのでしょう。

ルブツォーフ像(トーチマ)
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 トーチマ(この地名は、「ト チマー〔あそこは真黒けだ〕」といってピョートル大帝が立ち去ったのに由来するとよく言われますが、それは俗説で、「低湿地」を意味するフィン語起源と思われます。北ロシアの地名の多くはフィン・ウゴル語系です。フィン・ウゴル文化こそ北ロシアの基層をなしています)は、こぢんまりしていますが、やはり、17〜18世紀にシベリアへの交易の中心として栄えた歴史をもっています。18世紀中ころからは、ここの商人たちはカムチャツカやアラスカにまで進出しました。毛皮の取引で成功した商人は、競って教会を建造しました。主の降誕教会、入エルサレム教会、聖三位一体教会、スパソ・スモリン修道院などトーチマ・バロック様式の教会が現存しています。

 トーチマはまた、ロシアの自然と農村の薄幸の詩人、ニコライ・ルブツォーフ(1936〜71)ゆかりの地です。川べりに白樺に囲まれて、ベンチにすわる詩人像があります。実物は、写真で見ていたよりはるかによろしい。ヴォログダ市内の詩人の立像に匹敵します。 

 ここでは、大ウースチュクよりもはるかに人々の暮らしの臭いがしました。川で洗濯する女たちや岸辺で日向ぼっこしながら待つ運び役の男たちの姿に、心なごみました。しばらく住んでみたくなるような、穏やかな町でした。

右より、ムサさん、ミーシャさん、コーリャさん
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 大ウースチュクの美しい町並み以上に、私を心底魅了したのは、そこで出会った人々でした。

 わがミーシャさんと同じく文化財の修復保存に献身するコーリャさんとムサさんとが、2日間にわたって町を案内してくれました。ちなみに、ミーシャさんは詩人で、永年、国立ヴォログダ州文化財保存センターの長をしています。

 コーリャさんは、大ウースチュクの文化財修復センター長。1947年生まれの53歳、ミーシャさんより6歳年上です。大ウースチュクで生まれ育った人です。いかにもロシア農民出身らしく寡黙な人ですが、故郷や仕事に寄せる熱烈な思いが全身から感じられます。文学者のラスプーチンを尊敬し、自らの土地を離れては人は生きられないと、深く信じています。郊外の別荘で蜂も飼っていて、濃厚で滋味豊かな蜂蜜を、1日に20グラム以上とらないようにとの注意づきで、家内とわたしそれに加藤さんも一びんずつ頂戴しました。

 一方、ムサさんは、南のイングシの人で、対照的な性格です。長身で息をのむほどのハンサムです。大家族の長男なのですが、父親の命で北方のコミ共和国で学び、そのままシベリヤや北ロシアに留まり働いてきたのでした。8カ月前から大ウースチュクの文化財修復センターの主任技師となりました。

 見るからに有能で、人あしらいの巧みな人です。川岸のシャシリク屋で、強い日差しを浴びながらみなで食事をしていると、この町に2人いるというホームレスの1人が、ビールの空びんを集めにきました。びんの空くのを待って離れません。ビールびんは、各社共通のため買取ってくれるのです。すると、私の隣りのムサさんが、実にさりげなく10ルーブリ紙幣を1枚その男に渡し、小声で「30分邪魔してくれるな、たのむ」と言いました。4、5分して男がまた寄ってくると、さらに1枚渡し、「1時間放っておいてくれ、たのむ」。男は二度と現われませんでした。その間のよさ、自然さ、男に対する心くばり。いかにも職人の頭と、感動しました。

 土地の人々から愛されているのは、隣のテーブルの知人たちがウィンクとともに私たちにビールを差入れてくれたことからも、わかります。

 ムサさんは、足に肉離れをおこしたにもかかわらず、2日間事もなげに私たちの世話を続けてくれました。

ユーリー・ペトローヴィチと筆者(ミーシャさん撮影)
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 さらにもう1人、大ウースチュクで熱血漢に出会いました。

 大ウースチュク博物館の歴史家、ユーリー・ペトローヴィチです。故郷の大ウースチュクを心から愛し誇りとして、大ウースチュクの歴史と文化に精通しています。作家のベローフさん顔負けの熱情の人で、モスクワと中央権力を嫌悪しているのも共通しています。

 この3人に会うためにならば、モスクワから1100キロ余りの旅をして大ウースチュクを訪ねるに値します。ロシアの最大の魅力と宝は、すでに二葉亭四迷が指摘しているように、これらの「ちょっと外国には見ることの出来ぬ性格の人物……非常に真面目な、真摯な、子供のやうな純潔正直な人間」(『露国文学断片』)なのだとの思いを、改めて強くします。

 堅く再訪を約して、私たちは3人と別れたのでした。


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