リレーエッセイ

第17回 - 1998.08.09
川上俊彦文書と日露戦争:ウラジヴォストーク海軍スパイ活動

稲葉千晴

kawakami  川上俊彦(としつね・写真右)とは、明治後半から・大正・昭和と活躍したロシア通外交官である。明治30年代前半のペテルブルク駐在時代には、海軍駐在員だった広瀬武夫と交友を続けた。30年代後半のウラジヴォストーク貿易事務官時代には、日露戦争勃発で避難するロシア在留邦人のウラジヴォストークからの脱出を指揮した。1905年1月、旅順陥落時の乃木・ステッセル会談では、ロシア語の通訳も務めている。1909年10月には、ハルビン総領事として伊藤博文をハルビン駅頭で迎え、伊藤暗殺の際、流れ弾にあたり重傷を負っている。ロシア革命時に混乱するロシアを視察し、革命の状況を日本に連絡した。第一次大戦後は初代在ポーランド特命全権公使に任命される。ところが、シベリア出兵後のソ連との基本条約締結に向けた交渉の中で、後藤新平に命ぜられ、ソ連代表ヨッフェとの予備交渉にあたった。以後、満鉄の理事を務め、ハルビン学院の創立にかかわり、日魯漁業株式会社社長などを務める。明治から昭和にかけての日露・日ソ関係にかかわった、もっとも重要な外交官の一人と言うことができよう。

 この川上の文書は、川上が、松本憲法草案で有名な松本烝治の息子に娘を嫁がせた関係から、田園調布の松本の遺族の下に残っていた。現在、名城大学都市情報学部の稲葉研究室に保管してあるが、将来的には国会図書館憲政資料室に寄贈されることになる。

 その文書の中に面白い史料が存在する。日露戦争後、海軍から送られた感謝状である。しかも、何の功績について感謝しているのかが記されていない。ところが、海軍と川上を結び付ける接点に、私には見当がつかなかった。川上は、1904年夏には、ポーランドから来たロマン・ドモフスキ(ポーランド独立時の外相)の通訳として、松山の捕虜収容所を訪れているが、それと海軍とは関係がない。旅順陥落後、水師営での乃木・ステッセル会談の通訳を務めたが、それが理由ならば、感謝状は陸軍から来るはずである。1904年2月、貿易事務官としてウラジヴォストークでロシア在留邦人3000名以上の引き揚げも指揮した。だがそのことに対しては、日露戦争後ウラジヴォストーク在留邦人会から、別に感謝状と記念品が送られている(川上文書中に記念品目録あり)。旅順口閉塞作戦で亡くなった広瀬武夫と交流があっただけで、海軍から感謝状が来るわけもなかろう。1935年に川上が亡くなった直後出版された追悼論集『川上俊彦君を憶ふ』西原民平編(非売品、1936年)にも、なんら海軍とかかわりのある記述は残っていなかった。

 答えは、外務省外交史料館に眠っていた。日露戦争前年(1903年)に外務省政務局によって作成されたファイル「浦汐竝ニ哥爾薩克方面ニ於ケル露國ノ軍事的動作等報告方ニ付海軍軍令部ヨリ在浦汐貿易事務官及在哥爾薩克領事ヘ嘱託一件」(5.1.10.18)である。「浦汐」とはウラジヴォストークを、「哥爾薩克」とはサハリンのコルサコフを指す。同ファイルによれば、明治36年5月、陸軍が具体的な対ロシア軍事作戦の策定を始めるのにあわせて、海軍も戦争準備を開始した。海軍軍令部は、その手始めとして極東にあるロシア太平洋艦隊の動静を探るため、情報収集を外務省に依頼したのである。旅順にはスパイが送り込まれ、ウラジヴォストークでは川上貿易事務官に、コルサコフで野村基信副領事に、情報収集の命が下った。

house  開戦前夜のウラジヴォストークの状況を簡単に述べておこう。同地には外国の領事館を置くことが認められていなかった。そのかわりに貿易事務官事務所(1909年総領事館に昇格・写真左)が置かれたが、暗号で電報を打電するなど、総領事には認められている外交特権を十分に行使することができなかった。日露間の緊迫した状況は、ウラジヴォストークにもひしひしと伝わってきており、貿易事務官事務所の日本人へも警察による監視がつけられていた。これでは、港に出入りするロシア艦船の動静など簡単につかめるものではない。たとえ危険を冒して情報を入手しても、情報を伝達する手段を規制されているため、情報を迅速に日本に送ることができないのである。

 1903年5月、最初の命令がウラジヴォストークに打電された。しかし、この時期、まだ川上は前年に行ったシベリア鉄道および東清鉄道調査の報告書を提出するため滞京していた。東京で、軍令部の情報担当者と相談して、どのようにして検閲の網をくぐり抜けて電報を打つか考えていたのである。6月初め、ウラジヴォストークに帰任すると、早速東京の外務省を経由して軍令部と連絡をとり、具体的な特別暗号の作成にとりかかった。検閲されても暗号だと気づかれないようにするため、次のように、数字だけでロシア艦船の出入港がわかるシステムを開発した。

 艦船それぞれに入港および出港に別けて番号を付け、いつ出入港したかは、電報の日付と同じにする。そのため、「艦船符号表」と「艦船発着電報取扱規約」を作成する。たとえば、「18号公信受領セリ」とは、符号表の「18」すなわち「戦艦ヴォスラーヴィアの出港」を意味する。他の日本語はすべて暗号をカモフラージュするために用いられる、というものであった。

 しかし、この方式でも問題は生じた。符号表に掲載されていない船が出入港したとき、連絡できないのである。そこで、たえず符号表の改訂が求められた。だが、電報では連絡できない。外務省は日本郵船ウラジヴォストーク航路の船長に、符号表差し替えのためのクーリエを依頼した。川上は、事務所の館員一人を港の監視に差し向けて情報を収集させ、1904年2月の開戦までの間、数多くの海軍情報を東京に送った。

 日露開戦直前の1904年1月12日には、再度海軍軍令部から依頼が来た。開戦で川上らが引き揚げた後もウラジヴォストークで情報を収集するため、外国人スパイを雇ってほしい、というのである。この件に関しても外交史料館所蔵の「日露戦役関係帝国ニ於テ密偵者使用雑件」(5.2.7.3)というファイルに詳しく記されている。結局川上は、在ウラジヴォストーク米貿易事務官に情報収集を依頼した。だが、開戦とともにウラジヴォストーク・長崎間海底ケーブルが不通となり、日本への電報での連絡が不可能となった。くわえて、アメリカ人にまでも、ロシア警察の尾行がつくようになった。これでは日本に情報を送るなどできるはずがない。開戦後のウラジヴォストーク情報は、同地近辺に住む朝鮮人からのわずかな情報に頼るしかなくなった。

ulajivostok  ウラジヴォストーク(現在の風景・写真右)から川上が送ったロシア艦船の出入港情報が、どれほど日本海軍の役に立ったかは不明である。また、開戦後のウラジヴォストークでの情報網の構築も失敗している。しかし、ウラジヴォストークでの川上が行った情報収集のための努力は、決して少ないものではなかったのであろう。日本海軍は、陸軍とはことなり、海外での情報収集の多くを外務省に頼っていた。その中でも、川上の働きが重要だったとみなしたため、感謝状を送ったにちがいない。残念ながら、感謝状を送った1906年には、日露戦争中の機密事項を公表することはできなかった。それゆえ、感謝すべき功績が一行も書かれていなかったのである。

 500点を越える資料が、川上文書には含まれている。この感謝状を越える多くのドラマが、それぞれの資料の背景に存在することは疑いない。資料保存の観点からは、できるだけ早く国会図書館憲政資料室への寄贈が必要である。ただし、現在ならば、まだ稲葉研究室にあり、図書館寄贈後よりも自由な利用が可能である。利用希望者は、できるだけ早く稲葉まで連絡をいただきたい。


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