リレーエッセイ

第15回 - 1998.05.01
朗 報

中村喜和

 私ごとで恐縮だけれど、私の勤務している大学では、今年度ロシア語の授業をとる学生の数が11人を数えそうだ。「そうだ」というのは、まだ科目履修の届け出が締切られていないからで、最終的にはこれよりもっとふえる可能性がある。去年は4人だったから、約3倍という驚異的な増加である。

 なぜこれほど増えたか。エコノミストをしているある友人の説では、ロシア経済が底を打ったからではないか、という。あらゆる生産が落ちるところまで落ちて、さまざまな指標が去年あたりからやっと上向きに転じたらしい。だが、この意見に私は賛成しがたい。女子学生がそれほど物質的な利害に敏感とは思えないからだ。

 それなら、と言ってエコノミストが挙げたのは、昨年のクラスノヤルスク、近くは川奈での橋本エリツィン会談のご利益(りやく)である。なるほど、あの二人のパフォーマンスは派手だった。「リュー」「ボリス」と呼び交わしながらの親密ぶりはうす気味悪くすらあったものの、日露間の関係が外交や経済の面のみならず、文化や人事交流の分野でも、近い将来急速に進展する可能性があることを示してくれた。下からの地道な積み重ねなどタカのしれたもので、日本もロシアも上からガツンとやらなきゃ駄目なのさ、と友人は強調する。

 ところが、私はこれにも異議があるのだ。ロシア語の最初の授業に出席した女子学生たちに動機をたずねたところ、半分以上がバレエやフィギュアスケートやアイスダンスへの興味からと答えたからだ。長野オリンピックが一役買ったとも言える。ほかには、タジックやウズベキスタンに文通相手がいるからと答えた者もいる。ほとんどの学生がトルストイやドストエフスキーやチェーホフなど、ロシアの小説家の作品を読んだことがある、と答えた。これは、私の予想外だった。

 動機は何であれ、この国への関心の高まりは、われわれのようなロシア語の教師にとって明るいニュースである。ナウカ社をはじめロシア語図書を扱う書店にとっても同様であろう。そればかりか、成文社のように社運を賭してロシア/スラヴ関係の書物を出している出版社にとっても朗報にちがいない。社長の南里さんに心から「おめでとう」と言いたい。

concert  ところで、こういう時局とはまるで関係がないのだが、私ごとをもう一つ。これは何か鳴り物入りのエッセイを、という南里さんの口車に乗って続けるのである。去年の桜のころ、私は演奏会に出た。聞きに行ったのではない。出演したのである。演目はロシアの大作曲家バラーキレフの『ロシア民謡30曲』だった。

 この作品はさまざまなジャンルの民謡の最初の数行を素語りで聞かせ、そのあとをピアノの連弾が引き継ぐという趣向をもっている。19世紀の末に北ロシアの田舎で採譜された素朴な原曲をバラーキレフが華麗に編曲しているのだ。30曲のうちロシア独特の英雄叙事詩ブイリーナを取り上げて私(写真右)がその語りの部分を受け持ち、新進のピアニスト光安優子さん(写真左)と岩田和音さん(写真中央)がみごとな演奏の腕前を披露した。むろん、本邦初演である。素人の朗読はほんのお愛敬だったが、ピアノ演奏のほうは満場の喝采を浴びた。

 青山の小ホール「パウゼ」でのコンサートでは30曲のうち試験的に6曲だけを紹介したにすぎないが、いずれどこかの大ホールで一挙に全曲を演奏したいと夢想している。夢が実現することになったら、それも日本文化のために朗報なのだが。


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