リレーエッセイ

第12回 - 1998.02.01
再びドヴラートフについて――学会参加者の手記――

守屋愛

セッション写真  ロシア文学をやっていてアメリカに行くことはないと思っていたが、昨年の11月ドヴラートフに導かれて、生まれて初めてアメリカに行った。前々回のリレーエッセイの最後で触れたドヴラートフのセッションに参加するために。

 AAASS (American Association for the Advancement of Slavic Studies) が毎年開催している学会が、97年11月20日から24日にかけてシアトルのシェラトン・ホテルで行われた。この学会における総セッション数は362にもおよぶ。だから聴衆は選択する。その結果、人気のある議題には人々が大きなホールに溢れかえるが、そうでないところでは5、6人の主催者に対し、聞いている人が2、3人でちょっと悲しい感じがする。

 ドヴラートフのセッション(写真)は比較的人気があったとだけ言っておこう。このセッションのメンバーは議長レフ・ローセフ、コメンテーターのアレクサンドル・ゲニス、発表者マルク・リポヴェツキー、沼野充義先生と筆者。聴衆もほとんどがネイティヴのロシア人なのに、報告者三人中二人が日本人というのは非常に奇妙な感じだった。しかし、だからこそ全体として議論は面白くなった。

 というのは、沼野先生や筆者が、日本的な視点からみると、ドヴラートフはこれまでの重厚長大で教訓的なロシア文学にはない新しさがあるという点を指摘すると、ロシア人の出席者たちからは、いやいや、ドヴラートフの文学的特徴はすべてロシア文学の奥底にもともとあったものだと反論が出た。そのうち会場の和気藹々とした雰囲気も手伝って、「ドヴラートフはプーシキン的伝統とつながる」、「ドヴラートフにはロシア児童文学の影響がみられる」、「そう言えばドヴラートフはトルストイの作品が非常に好きだった」、「いやいや、ラーゲリによって作家になったという点では、ソルジェニーツィンと共通する」という意見まで噴出。果ては「つまりドヴラートフはロシア文学全体の伝統を受け継いでいる」ということに(セッションのより学術的に詳しい内容は、近日刊行の東京大学大学院スラヴ語スラヴ文学研究室年報SLAVISTIKA XIVを参照されたい)。

 何度も笑いの渦に包まれたこのディスカッション。本当にドヴラートフにアメリカ文学の影響はないのかどうかといったことはさておき、わかったことは、ロシア人たちがドヴラートフを、自分たちの輝かしい文学遺産から生まれ、また自らその一員となったロシア作家として位置付けようとしていることだった。

 ○ニューヨーク余話

 せっかくアメリカまで行くのだから、学会の後ニューヨークへも行ってみようと思い立った。驚いたことに、ホテルに着けば宿泊客は皆ロシア人。コロンビア大学の教授宅に遊びに行けば、先生の夫はロシア人。人に道を尋ねるとロシア訛らしき強烈な巻き舌の英語。ニューヨークにロシア人が多いとは聞いていたが……。ドヴラートフもこんなニューヨークのロシア人の一人だったのだろうか。

 ニューヨークでの夜、勇気を出してエレーナ・ドヴラートワ(ドヴラートフの未亡人)に電話をしてみた。突然、見ず知らずの日本人がたどたどしいロシア語で電話をかけてきて、彼女もびっくりしたことだろう。しかし彼女は非常に落ち着いた声で、親切に応じてくれた。簡単に学会の報告をしたあと、ドヴラートフ家の近況を聞いてみた。娘のカーチャは今モスクワで通訳として働いている。息子のコーリャは学校に通っていて、エレーナさんと暮らしている。ドヴラートフのお母さんもニューヨークに健在だ。

 「セルゲイ・ドナートヴィチの本を読んでいると、あなたがたのことが身近に感じられます」と私。「彼の本には、私たちのことがありのまま描かれていますからね」とエレーナさん。

 と、そのとき犬の鳴き声が聞こえた。「ひょっとしてグラーシャですか?」「いいえ、グラーシャはずっと前に死んでしまったの。グラーシャのあとに、セルゲイが小犬の頃に連れて来たのよ。」

 『わが家の人びと』の物語が終わっても、ドヴラートフ家の人びとの物語は続いていく。


HOME既刊書新刊・近刊書書評・紹介チャペック