リレーエッセイ

第2回 - 1997.03.01
二番煎じ

長縄光男

 ロシアには随分と長くご無沙汰している。「ホワイト・ハウス」なる建物がエリツィンの差し金で砲撃され、真っ黒な「ブラック・ハウス」になったばかりのところを、クツーゾフ大通りを走るバスの中から見たのが最後の年だから、もうかれこれ5年近くもロシアを訪れていないことになる。その間にも、ロシアへ行って来た人やロシアから来た人などからロシアの「変貌」ぶりを聞かされ、「ぜひ見に行っていらっしゃい」とか、「ぜひ見に来なさい」などと、勧められたり誘われたりするのだが、どうにも食指が動かないままに今日になってしまった。そして、その気持ちは今のところ一向に変わる気配はない。それまでは2年もロシアを見ないでいると何となく落ち着かない気分になって、結局、何だかんだと口実を設けては、確実に一年置きくらいにはロシアを訪れていたのだから、たいした心境の変化だと言わなければならない。

 だが、何故そうなってしまったのかは、自分では分かっているつもりだ。それは「変わった」と言われるロシアの顔が、わたしにはもう先刻ご承知の顔に思えるからだ。要するに「マールボロ」と「マクドナルド」なのだろう。それならもう5年前からそうだった。これは「冷戦」という名の紛れもない戦争に負けたロシアに「戦勝国アメリカ」が軍隊の代りに「文化」を進駐させてきただけのことで、その図柄はもうとうの昔にはっきりしていたことだ。「ロシアは変わった」と人は言うけれども、つまるところそれは本質的な変化ではなく、見た目の程度がきつくなったということだけなのだろうと、わたしは何やら固く確信しているのである。

 こんなかたくなな「確信」をもっているというのも、きっとわたしが「焼け跡」の日本を朧げながらも覚えているからだろう。その記憶の中で「アメリカ」は「安ピカ」そのもので、日本人はその「安ピカ」の前で卑屈そのものだった。その「安ピカ」の進駐状態から日本はいまだに脱していないように見えるのだが、ロシアもまたその道を歩もうとしている。そして、それを「進歩的」とか「民主的」とか称している……。もとより「ソヴィエト型の社会主義」をもう一度みたいとは思わない。だが、「キッチ」なロシアは見たくもない。どこやらの国の「二番煎じ」はもう沢山なのだ。


HOME既刊書新刊・近刊書書評・紹介チャペック