平凡な人生


チャペック小説選集第5巻

K・チャペック著/飯島周訳
四六判上製/224頁/定価(本体2300円+税)

「平凡な人間の一生も記録されるべきだ」と考えた一人の男の自伝。その記録をもとに試みられる人生の様々な岐路での選択の可能性の検証。3部作の最後の作品であり、哲学的な相対性と、それに基づく人間理解の可能性の認知に至る。(1997.6)


訳者解説

 いわゆる哲学三部作の第三部となる『平凡な人生』は、『ホルドゥバル』『流れ星』(本選集第三巻および第四巻)に続き、一九三四年九月三十日から十一月二十七日にかけて『リドヴェー・ノヴィニ』紙に連載され、同年中に単行本として刊行された。初版は二千部で、翌年以降さらに版を重ねた。

 前期二作品と同様、この作品も単独作として扱うことができるが、最後につけられた「原著者あとがき」に明記されているように、チャペックは三部作の構成を考えていた。ただしこの三部作は、通例と異なり、共通の主人公も共通の事件も情況もない。共通なのは、「真実とは何か」という問いかけおよび個人の運命と内面生活の探求で、哲学または認識論的問題に発展する。この作品には特にその色彩が強い。作品の筋は、むしろ単純である。すなわち――

 地方の小さな町の指物師の家に生れた主人公は、幼児からやや閉鎖的な精神生活を送っていた。小学校の仲間たちとの交際、近くでの鉄道建設、ジプシー労働者の女の子との経験、近親者との関係などが伏線的に語られる。学校での成績は優秀で、社会的なエリートになることを期待され、小都市のギムナジウムに進学する。初めての都会的雰囲気と貧乏生活に悩まされながら、友情も恋愛も経験し、ガリ勉を続けてプラハの大学に入り、哲学を勉強することになる。だが、たまたま同宿した自称詩人の友人と大都会の誘惑に負けて身を持ち崩し、学業も中断してしまい、送金も絶たれて、生活のために幼時から関心のあった鉄道に就職を希望する。幸いにして採用され、プラハの駅に勤務するが病を得、静養の意味もあって、山間の「この世の果て」の駅に転属になる。程なく病気は回復し、少し大きな駅に移り、そこのドイツ人の駅長の娘と恋に落ちて結婚する。さらに転勤を重ね、比較的若くして駅長に昇進し、職場の整備に努め、模範的に経営する。だが不幸にして戦争が起り、駅は狂った軍人の支配下に置かれて荒廃し、民族的立場も影響してレジスタンス運動に加担する。やがて無秩序と破壊が横行する戦争は終わり、新生共和国の鉄道再建という名目でプラハの本省に移転、適度に栄進した後年金生活に入って、園芸を楽しむ。その晩年に、同じく園芸を趣味とする医者と知り合い、その家で手にした誰かの伝記に刺激を受け、自分の平凡な一生を書き残そうと決意し、病に苦しみながら記録をまとめる。

 その平凡な自分の人生の記録をもとに、人生のさまざまな岐路での選択の可能性を、病床にありながら、主人公は自分の内部の数多くの「わたし」を相手に反省し検討し、自問自答する――どれが正当な人生なのか? この哲学的認識論的な検証は、いかに平凡な人生でも、その内部には実にさまざまな可能性があり、深い意味を持つことを明らかにする。なお、プロローグとエピローグにあたる部分は、主人公と園芸を通じて知り合った医師が、故人から託された記録について故人の旧友と語り合う設定で、作品全体の枠を作り、読者の想像を誘う。

 この『平凡な人生』と、日本文学における二葉亭四迷の『平凡』との対比は興味をそそる。いずれも地方から上京して学業に励もうとした青年が主人公で、文学趣味と大都会の誘惑に毒されて学業を放棄し、やがて平凡な役人として勤める点で一致する。ただ、『平凡』の主人公は文学的に一時成功するが、『平凡な人生』の主人公は文学と表面的には完全に絶縁する。『平凡』の方は「夜店を冷やかして手に入れた」稿本で、「跡は千切れてござりません」「致方がござりません」で終り、『平凡な人生』の記録は最後まできちんとまとめられた文書として残される。どちらも作者の四十代前半に書かれた自伝的要素の濃い作品であるが、『平凡』の中の「夢のような一生だった」という感想は、『平凡な人生』の主人公の内部での深刻な論議とは距離があり、作者の資質の差を感じさせる。

 前述のように、この三部作には共通の主人公はなく、文体的にも異なっている。『ホルドゥバル』は山地の農民を主人公にした、散文のバラード的な文体で、後半は推理小説的な展開になる。『流れ星』は嵐の日に墜落事故で重傷を負い、意識不明になった患者エックスの過去を、ほとんどその肉体だけを手がかりに、尼僧看護婦、千里眼、詩人、そして医者たちが推理する。内容により素朴な告白体や技巧的な文体が混在している。最後の『平凡な人生』では、死期が迫ったことを知っている退役鉄道官吏が、自分の平凡な一生を回顧し、自伝的にまとめた後、再三にわたり検討を加え、何か正直に書き切れていないこと、人生の節目節目に何らかの選択の余地があり得たこと、などに思い当たる。そして、自分の中にさまざまな自我が存在することを発見して感銘を受ける。文体的にはそれほど複雑ではないが、後半の内面的対話の部分はやや混み入った印象を与える。

 そんなわけで、この三部作は、外面的な共通性に乏しい感じだが、内容的に考えれば、どの作品にも主人公の愛と死が描かれ、ジプシーの少女との関係のような暗いエロスとタナトスの交錯が人生を織り成す重大な要素であることを暗示する(実際に『流れ星』と『平凡な人生』に偶然のように出て来るフランスの詩人A・ランボーの名前は、作者の心の中にあったものを推測させる)。そして、医者と心臓がそれぞれの作品の中で一種の役割を演じている。

 ともあれこの三部作がM・ハリーク博士によって初めて一冊にまとめられたのは、作者の死後二十年近く経た一九五六年であり、以後はこの形が踏襲されている。本訳書の原本もその一つで、一九八四年発行の作家同盟版選集の第八巻である。

 三部作全体についての原著者の意図や評価は「原著者あとがき」をお読みいただきたいが、別の角度からの解釈も参考のために記しておく。

 たとえばチェコ文学者のF・ブリアーネク(カレル大学教授)の解説によれば、この三部作はそれぞれアプリオリな諸テーゼについて書かれている。まず『ホルドゥバル』は、たとえさまざまな方法でアプローチしても、他人に関してはもちろん、自分自身のことについてさえ真実を認識するのは困難であることを示し、『流れ星』は、認識する各人がその認識の中に自分自身、および自身の思考と感覚を導入してしまうことを描き、そして『平凡な人生』では、たとえ一見平凡で謎のない人間でも自身の中に数多くの人間のタイプと人生を秘していること、つまり自身の中に――少なくとも潜在的に抑圧された可能性として――人間のあらゆるタイプと運命を内蔵していることを確認し、個々の人間の自我が持つ複数性の中に、他の人間や自分自身を認識する可能性が与えられる。――この解説は、認識に関する三部作の発展の段階を相当程度明確に感じさせる。

 このような見方をさらに整理して記述したものとして、コロンビア大学のW・ハーキンス教授は、この三部作をチャペックの認識論におけるヘーゲル的な展開、すなわちテーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼの三段階による弁証法的発展だと説明している。

 これらを総合して、三部作に関する解説をまとめれば、おおよそ次のようになる――

 第一部の『ホルドゥバル』では、一見単純な事件と動機が、観察者それぞれによって異なる解釈を受ける。主人公ホルドゥバルの秘密と人格は個別的・特異的なもので、他人には理解不可能である。弁証法的発展の第一段階、すなわちテーゼは、「あらゆる人間はそれぞれ独特で相互に不可知な存在である」という相対主義的な思考である。象徴的に、主人公の心臓はどこかへ紛失する。

 第二部の『流れ星』は、瀕死の重傷を負った未知の人物「患者エックス」の運命についての推理が、三通り(または四通り)に行われる。推理者それぞれの直観や経験によって物語は異なるが、部分的なデフォルメを除けば、重なり合う点も多く、全体としては一つのまとまりを感じさせる。いわば文学的キュビズムの手法によるもので、チャペックの一つの特徴でもある(ついでながら、兄のヨゼフはキュビズムの画家として有名であり、思想的な関連があるかもしれない)。この第二段階のアンチテーゼは、第一段階の相対主義的視点の対極としての遠近法的視点の確立、すなわち「ある人間についての視点は数多いが、それゆえに不可知ではなく、遠近法的な視点の集積は、統一的真実を構成し得る」ということである。主人公の心臓は肥大化している。

 第三部の『平凡な人生』は、他人による観察ではなく、自身による自身の探究である。第一部ではやや間接的で、第二部ではもっと明確になった自己探究は、第三部において焦点化する。定年退職した鉄道官吏の記す平凡な人間の平凡な人生の記録は、反省を加えることによって極度に複雑な様相を呈する。この複雑性を解く鍵は、数多くの顕在的・潜在的な自我の存在、つまり自分の中に数多くの「わたし」が存在することを肯定し、正確な遠近法的推定を行うこと以外にはない。従って、第三段階のジンテーゼは「外部からの遠近法的多様性は、個人の内部の人格の多様性に対応する」、すなわち前述のように「自他の正確な認識の可能性は、個々の人間が持つ自我の複数性を容認することにある」。この真理を発見しようとする努力の中で、主人公の心臓は動脈硬化による心筋梗塞を起こす。

 最終的に、この三部作を貫くテーマは、哲学的認識論の範疇に属する「自分探し」の努力と関連する。二十一世紀を迎える寸前、二十世紀末の混沌とした現在の世界で、自己の内部にある、いわゆる多重人格の反省、真の自己の探究という永遠のテーマと結び付くこの三部作は、まさに同時代的意義を持つものである。そして「たとえ最も平凡な人生といえども、なお限りないものであり、それぞれの魂の価値は測り知れない」というチャペックの認識は、今なお十分な現実性を持ってわれわれに迫ってくるであろう。


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