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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 11 . 13 up
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 思うに、うちの課の大物たちでさえ、彼〔局長〕を恐れている。急にやって来る国会議員に対してつねに戦々恐々たるわが委員会の面々同様、おそらく課の大物たちもびくびくしているのだ。訳もわからずただ恐ろしき人生(なんせナンデモアリだから)に、いきなり横からひょいと何かが飛び出してくる……
 そこにこそわが局長の強みがある。それでもって彼は出世してきたのだ。まったくの実務者的人生のある限界すれすれにまで達して、もうあと一歩で次官、その先には大臣の椅子が待っているのである。ところで、つい最近、その次官のポストがあいた。きょう、うちのファイルに納まったのが、大臣からの、局長をお茶に招くという手紙。
 そういうことはよくある――もちろんそうでない手紙を綴じ込むこともある。局長の個人的な手紙は彼の執務室に入ったとたんに消える。青鉛筆はいかなるときもさらりと、到着書類の内容と日時を付した紙の上を走る。それで、自宅に用事があって何か書き送らなくてはならないときは、妻への敬意をしっかりと示す手紙が認(したた)められるし、ときには妻からの手紙(帰宅途中でケロシン・ランプの購入を依頼する妻の手紙)の上に記した彼のチェック(ケロシンを忘れぬこと)に気づくこともある。ちょうどそんなときに局長をお茶に招待する旨の手紙も入ってきたので、一同ひどく動揺したのである。堂々とした本物の役人ひとりを除いて、われわれは全員新人だった――甚だ従順でない、これまで役所なんかに勤めたことのない新顔ばかりで、目の前に本物の役人がいてさえ、あまり熱心に仕事をしない人間たちである。しかし、局のトップが異動すればこちらが解雇される可能性だってある。それはまずい! 問題が急になまなましく個人的な色彩を帯びてきた。
 「局長は断固ことわるべきだわ」口火を切ったのは、自由契約(軍属による)の若い女性事務員である。
 「どうしてかね?」と、常勤の課長〔本物の役人〕が訊く。「局長のあの仕事と人生の知識・経験をもってすれば、国家に多大な利益をもたらすことになるでしょうが」
 「ことわる理由は、次官という地位がかなりの程度〈政治的な顔〉を要求するからです」
 「局長はそれを受け入れないとあなたは考えるんだね?」
 「そう、受け入れませんわ」
 「どうしてまたそう思うのかな?」
 そこで課長はお嬢さんに説明を始めた――いま求められているのは、政治色のない実務型の内閣であり、必要なのはみんなのために有益であること、それだけである、と。
 お嬢さん事務職員はそれに対して強硬に反対した――内閣に求められているのは政治的なものであり、わたしたちの局長はその信念その良心からして決してそんな地位など受け入れません、と。
 「あなたは良心を持ち出すが」と課長。「こんなときに良心が何だというのです? われわれが話しているのは国家の問題であって良心の問題じゃないんですよ。必要性が論じられているんだ。たとえば、自分が課長の地位にあれば、自分の部下たちの完全な主人であるわけだが、でも自分より上の部長はわたしの書類を取り上げて屑籠にポイすることもできるんだよ。要するに国家的地位に就いたとたん、わたしは完全に自分の自由を断念しなくてはならないのです」
 お嬢さんは黙っていない。
 「もしそれが良心にそむく行為なら、わたし、ぜったい自分の自由を売るようなことはしませんわ」
 「良心にそむくことなんてことじゃないよ。誰もあなたに他人(ひと)を騙せ、盗め、賄賂を取れなどと言ってやしません。良心は侵されないが自由は縛られる、そう言っただけです」
 「戦時下にあってさえ兵士個人の創意(イニシャチヴ)は重んじられていますわ」
 「それは戦時下だからね。でも、われわれの良心とか個人的なものは家庭生活のために取って置かれて、それ以外はすべて国家に捧げられるのです」
 「個人のものと国家のものと……それって二重帳簿ですわね」
 「じゃあ、あなたはどうだったの?」
 「もし組織や体制が卑劣な行為に走って、国家の、いいえわたしの祖国の崩壊を目指しているとしたら、どうなさいます?」
 「ま、為るに任せるしかないね。あなたは良心に従って立派な人間のままだろうけど」
 「原則として……」
 「いや原則として、あなたは反対意見を持っちゃいけない。あなたはすでに二重の存在なんですよ、国家的パーソナリティと純然たる個人とのね。うちの局長は、次官に就任されればもちろん、国家的パーソナリティとして大変に有益なことをなさるはずですが、個人としてはそれは彼個人の問題ですから」
 お嬢さんは黙ったまま、紙のこより〔ファイル用〕を指に巻きつけ、それを曲げたり伸ばしたり、そしてまたくるくる巻いては考え込んでいた。きっと、ここでは新人である彼女の頭の中を、個人と役人という二重の存在が悪夢のように駆けめぐっているのだ。そしてその悪夢は、状況がドラマチックなものになるというのではなく、そこには日常的でありのままの、殺風景というか、何かドラマチックなものの全否定といったようなものがあった。それでこよりはいよいよ折れに折れる。おお、この官府の紙のこよりよ! これまでわたしはそれが金属で作られているのものとばかり思っていたのである。誰もそんなもの見たのことがないはずだ。それは、まるでちっぽけな――そう、役人みたいにぜんぜん必要でない、大きさで言うと人差し指の爪かそれ以下の代物なのである。そんな役人はあらゆるサーヴィスに急き立てられている、それでいながら誰もが〈自分の個人的生活のようなもの〉があることを信じて疑わない。書類を並べながら綴じながら、自分のパーソナリティや私的生活について考えているうちに、こよりは解(ほど)けてきて、いきなりそいつが人差し指ぐらい(これは異常だ!)まで長くなるのである。そうなってしまったら、全部を元の状態に戻すのは無理なので、長いままで生き始める。癇癪を起こして、あっち曲げたりこっち曲げたりする。でも、どうにもならない。そしてネヴァ川の橋を渡りながら、相変わらず曲げたり伸ばしたりしているときに、ある日、忽然と理解するのだ――このこよりの私的生活とその不撓不屈の〔曲げられない〕精神、その弾性、その伸縮自在性、その適応性を。そうしてそのとき、あなたは、そやつを川に放って自由の身になる(、、、、、、、)のである。

 お嬢さんはこよりを伸ばしたり曲げたりしながら、口を開いた――
 「うちの局長はそんなポストを受けないという議論をしましょうよ」
 「受け入れますよ、そういう議論のほうが建設的だ」
 そこへ上機嫌の局長が入ってくる。われわれは失礼のないように慎重に訊いてみる。
 「あのう、ご栄転の話はどうなさいましたか?」
 「いや、ぜんぜん!」
 「それはまたなぜ?」と課長。
 「あれはわたしの政治的信念とは相容れないからね」
 お嬢さんは、伸びきったこよりをポイと捨てると、課長に向かって舌を出した。

 彼女〔母のマリア・イワーノヴナ〕には4人の息子と1人の娘がいた。息子たちはどこかに勤めており、娘は母のもとにいた。夏、みなが一堂に会した。夏のあいだ、彼らは指一本動かさず〔何もせず〕、老母を助けることもしなかった。夫に先立たれた彼女は女主人の運命(さだめ)をずっとこぼし続けたが、べつに息子たちや娘に手を借りようとはしなかった。彼女が亡くなったとき、子どもたちは領地を分与され、それぞれが朝から晩まで自分の小さな土地で主人顔して暮らしていた。分割された領地は売りにも出されず以前のままだったが、どの土地にも亡き女あるじの霊が生き続けていた。相続人たちはそれぞれ今も、全体として領地を捉えたり自分の近親者を思ったりすることがなく、もっぱら自分のことしか考えず、自分の家屋敷(ウサーヂバ)のまわりにも自分だけの庭園を造っていたので、たまにやって来る客などは、以前そこに何があり以前の領地がどんなだったか、もう見分けがつかないのだった。宏大な領地という感じはすでになくて、ただの独立農家(フートル)になってしまったのである。だからといって、フートルが共同所有地になったとは誰も思わなかった〔し、知りもしなかった〕。
 戦時下にある人間――しかも戦場にも出かけていったような人間には、きっと、自分の以前の仕事や経営のことを思い出したとき、どうしてあのとき(、、、、)共同の事業への奉仕というようなことが思い浮かばなかったのかと、自分でも驚く瞬間があったにちがいない。国家は大きな領地である。戦争中にそれぞれの経営〔農事〕の垣根が、突然、取り払われて、巨きな経営活動の推進手段〔始動レバー〕――『おお、それはおれのものだ!』が消えて、共同所有の土地――『いやいやこれはみんなのもの!』に取って代わったのだ。

 価格とは時間の尺度。価格の〔道徳的〕退廃。すなわち契約と良心の廃棄。闇屋とは時間を追い求める輩のこと。投機に怒りを覚えるのは住民に特有なことではあるが、しかし、もしわれわれが経済の主要な始動レバーが個人的利益へ熱望と追求である世界に生きているなら、卑劣な闇行為に対して本気で怒りをぶつけるべきなのである! 投機師たちの始動レバーさえぶち壊せば、闇行為など消えてなくなるはず。

 口の利けない鐘。ある教会の鐘楼守がわたしに話してくれた――あるとき、預言者イリヤー教会の鐘の舌がえらい音を立てて落っこちたんだ、落っこちただけじゃなく鐘楼の土台をぶち抜いて、土にめり込んだのさ。これはほんとにあったことだ。まるで雷が落ちたような大音響だった。なんせいきなり何もかもが裂けてひっち切れれぶっ壊れたんだよ。わしは口が利けなくなって、ただ地べたに転がっていた。
 どっかで鐘が鳴っているんだが、こっちは人気(ひとけ)もないところに、声もなく、ひっくり返っていたよ。何もかもがひっち切れちまったんだものな。でもわしには秘密の友がおった――たったひとりの、不可侵の、なんとも呼びようのない心の友だ。
 なんとか頑張ってその心の友のことをひとに話したり、彼のそば近く行こうとすると、なぜかわしは、100プードもあるわが友〔鐘〕の舌が地中に深く埋まったままじっとしているように感ずるんだよ。そして彼が夢に出てくると(鐘の舌は自分のほうからやって来ようとするんだが)、これがまたなんともみっともない身なりで現われるんだね。
 わしは大鐘を打っていちばん素朴な人間の喜びを鳴らしたいものだとつねづね思っている。わしは、その侵し難いわが心の友が素朴な地上の喜びであること、そうしたひとに知られることもなく名付けようもないものを誰も抱いていることを知っているんだ。誰もが持っているものをわしひとりだけが持っていない――そんな気さえする。それがわしの悲しみの種なのさ。この世界も、この最も素朴なものの喜ばしい世界も、わしのこの悲しみも、人間やわが祖国の森や野には従順で、決して逆らわないんだよ。

 見よ、この周知のわれらが生活の高物価、その説明の循環論法を! 生活必需品の高騰を企業家たちは労働力〔労賃〕の値上がりで説明しようとしている一方で、当の労働者も自分たちの高い要求を正当にも生活必需品の値上がりによって説明しているのである。大地は鯨の上に、鯨は水の上に、水は大地の上に乗っかっている。社会、出版物、政治家たちは哲学の石を求めて、毎日、普遍的悪の根本原因を発見すべく自らの努力の現況をわれわれに示そうと躍起になっている。

哲学者の石――別名「賢者の石」。中世ヨーロッパの錬金術師たちが鉛などの卑金属を金などの貴金属に変えるさいの「触媒」になると考えたもので、長いこと人間に不老不死の永遠の生命を与える霊薬(エリクサー、またエリクシール)と解釈されていた。12世紀、イスラム科学に由来する「錬金術」がヨーロッパに入ってきて、にわかに「賢者の石」の探求熱が高まった。

 まわりの人びとと個別に話していると、みなそれぞれになぜか救国の英雄ミーニンのように見えてくる。でも、また別の違う人とちょっと言葉を交わしただけで、すぐにミーニン自身が悪循環の中をぐるぐる這い回っていることが明らかになる。このミーニンの心の底に、憎悪の念を抱きつつあなたが見出すのは、自分の日々の暮らしへのほとんど自然の法則に適った(ように思える)、法的な弁明(言いわけ)であるにちがいない――どんな戦争だろうと大金持ちになる奴はいるんだ。そんなチャンスを誰が何百年も待っていられるか!

 エレーツのある大商人の屋敷の地下室で見つかったという手記。この町では商人階級の野蛮化の過程で、すでに多くの文化的に価値あるものが滅んでいる。この町のこの階級の日々の暮らしと世界の関係を確立すべく闘った挙句に、この階級から離脱した多くの人間がいたことは間違いない。手記を書き残した人も、おそらくそういう人たちの中のひとりであっただろう。彼のことは町の誰もが知っていた。生涯をロシアのみならずいろんな国をさ迷い歩いた変わり者、かなり奇矯な人物だったようである。両親の死後、彼は町に戻って、自分の家の風呂小屋(バーニャ)に住みつくと、大きな母屋のほうは貸しアパートにした。彼は画家として有名だったが、誰も彼の描いたものを見ていない。よく知られたある画家が彼のバーニャにやって来て、彼をモデルに絵を描いたことがあった。ついこのあいだ、コンサート会場でこの画家に会ったので、その閉じ籠り男のことを訊いてみた。『それで彼には画家としての才能はあったのですか?』。すると『いいえ』と意外な言葉が返ってきた。そしてちょっと考えてから、少々興奮気味に――『しかし彼は天才的な人間でした。そう、彼は天才……でしたね……』

バーニャ――サウナ風呂、銭湯。主に独立した木造の蒸し風呂式の小屋。

 手記はネズミに齧られた紙の塊みたいで、ところどころごちゃごちゃしていて訳がわからない。次のページに移ると前のページと内容が少しも繋がらないのだ。全体としてはまあ何か思想のようなもの、単語の羅列、観察メモ、送らなかった手紙(宛名は書かれていたが)といったところか……

 経営をめぐって。一日中、雨雲が畑の上を黒い鴉のように舞っていて、わたしたちは空を見上げては――『降りやしねえよ!』とか『大丈夫だ、逸れてくさ!』とか『やっぱしこっちにゃ来ねえな!』などと言い言いしていた。今にも降ってきそうな雨雲の下で、わたしたちはライ麦を刈っていたのだ――もちろん穀束の山〔にお〕をつくるところまではいかないだろうと思っていた。そうこうするうちに畑の端まで刈り取ってしまう。このままいけば、暗くなる前にぜんぶ山も終わるかも。そうだと麦も雨にやられずに済むんだが――とそんなことを思っていた。しかし、森を挟んだ向こうの畑には、まだ刈られてない2デシャチーナが残っている。ま、そっちはどうでもいいさ! そんな2デシャチーナのために全部の畑を犠牲にはできない。でも、疲れ知らずの腕のほうはまだまだやる気満々。雇った労働者たちもそうで、残りの2デシャチーナを片付けようとさっさと森の向こうへ行ってしまう。もういい、ここらでやめにしようといくら言っても――『なに大丈夫、〔雨雲は〕逸れてくさ!』とか『こっちにゃ来ねえでしょ!』とそればかり。
 (見上げる空の黒き翼よ……)
 それでライ麦刈りは続けられた。巨きな黒い鳥の翼が全天を覆ったまま夕方になり、あたりがすっかり暗くなったところで、ついにぱらつきだした。でも、刈り手たちは相も変わらず『なに大丈夫、逸れてくさ!』だの『こっちにゃ来ねえでしょ!』。
 たしかに雨雲は逸れていった。麦刈りは最後まで順調にいって、真夜中までにすべての山が築かれた。
 勝利はわが方にあった。一同なんだか陽気な気分になって、こりゃあどっかで《魔法のスピルト〔ヴォトカ〕》を見つけてこなくちゃなぁ――そんないつもの提言(ひとこと)も飛び出してくる。
 われわれの勝利はひとえに労働力の多さにあった。一日で(翌日は雨だった)全部を刈り終えたというのは大きい。運にもめぐまれた。幸運なんて偶然にすぎないから、こんなことはもうないかもなぁ――そう思うとちょっと憂鬱だが、でもまあ、これで奴隷労働からは解放されたのだ。みんなは愉快な気分になっている。働き手が多いというのは素晴らしい。そこでなんとしてもわれらが敵どもに言ってやりたくなった――おい、いいか、おまえらなんか少しも怖くないぞ、それはな……

 村、前線から遠く離れた――これは単なる後方〔銃後〕ではない、戦場からは遠く遠く離れた土地であり場所であり、ライ麦を刈ったり、家畜に餌をやったり、たまにはガルモーニを鳴らしたり、互いの家を訪ね合ったりもする、以前のようないつもの暮らしがある場所である。もちろん住人は時代から取り残されている。ただし時代の忠実な召使である物価だけは身をすり寄せてきて、世界で起きているそら恐ろしい大事件の噂を耳元で囁きながら、自分の思うままに、時代おくれの者たちを追い回している。(問題は価格ではなく市場(ルイノク)だ――あらゆる関係(取引・約束)を裏切ったのだから、それもじつに慇懃になかなか礼儀正しく)。吉兆のいずれと出るかはわからないが、物の値段はわれわれのこれまでの法律・慣習・しきたりを侵害し、今では良心の中にまで踏み込んでいる。恐るべき価格の上昇、とくに凄いのが労働賃金の伸び。吉と出るのか兆と出るのか、自分には判断がつかない。

愛称形ではガルモーシカ。手風琴。もとはドイツのハンブルグで作られた楽器(アコーディオン)。ガルモーニ(ハーモニー)はそのロシア的俗称である。ロシアでは職人たちの手でさまざまに改良され、その種類も多い。

 東プロシアでのわが軍の失敗〔については〕、なんとかやり過ごすしかない、なんとかなんとか耐えるしか――禁酒時代みたいに。
 砂糖待ちの行列のしっぽに立っていると、体がだんだん棒砂糖みたいになっていく。
 『ヴォトカと砂糖は――』と、ふと思った。『これら二つの産物には、その化学的組成と技術生産上の類似点――たとえば火薬と脱脂綿のように――がかなりある。同じものから綿が欲しければ傷口に当てる綿が、火薬が欲しければ人を殺す火薬が。欲しければヴォトカにも砂糖にもなるのだなあ』と。だが、そんな自分のアナロジーはすぐに崩れてしまう。砂糖を売る店の方へさらにもう一歩近づいたと思ったとたんに、また新たなテーマが生まれたのだ。それは、ヴォトカの販売禁止令があれほど異常な社会的な国家的な盛り上がりを見せたのはなぜか、反対に、ヴォトカとほぼ同様の衝撃を与えたのに、砂糖の販売禁止がヴォトカとは異なる反応を示したのはなぜか――ということ。そのとき、急に思い出したのが、たとえば去年、ヴォトカの販売が禁止になったころ、自分がよく知っているある村の農民たちが徴兵にあった家族に対してにわかに手を差し伸べ始めたのだが、今その同じ村で何が起こっているかと言えば、砂糖が販売禁止されているこの時期に、〔人手がなくてどうにもならない〕貧しい家からも、畑の鋤き起こし代として、1サージェンにつき30コペイカ、すなわち1デシャチーナにつき18ルーブリを徴収しているのである……

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