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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 05 . 15 up
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 女たちの言い合い。男は一般的なもの共通共同のものはそのままそれとして受け容れるが、一方、女は〔本来的に〕分解不能のエレメンタルな共通項を分解して私的な個人的なものにまとめたがる傾向から、観念論争あるいは科学的事実論争が激情的かつ本能的な言い合いの様相を呈してしまう。「スモレンスク県〔妻の生まれ故郷〕はろくでもないところだが、わがオリョール〔プリーシヴィンの出身県〕ときたら、じつに立派なものだ」――「いいえ、あなたのとこよりスモレンスクの暮らしのほうがずっといいですよ!」――「いや、暮らしのことを言ってるわけじゃないんだ、土地(ゲオグラフィー)だよ。オリョールは黒土地帯に入るが、スモレンスクなんて砂と沼地じゃないか」――「あなたのとこよりひどい土〔土壌〕を、あたし、見たことありませんよ。畑の取り入れだってまるで気がないみたいにだらだらやるし、それに比べるとスモレンスクではどこの農家も乳牛を10頭は飼ってますからね」と、まあこんな調子。馬鹿らしい言い合いだ。どうも、女の心にはいつも刺が突き刺さっているようだ。今のはわたし個人に向けられたもの。自分は教育を受けた人間だが、彼女に言わせると、教育ある人間が無教育な人間〔つまり彼女〕より駄目なのは――『あなたが持っているのは領地(イメーニエ)だけど、こちらは分与地(ナヂェール)ですからね』。妻は領地の暮らしより分与地での暮らしのほうが上等だと思っているのだ。それでゲオグラフィーなんかどうでもよくなって、とどのつまりはスモレンスクの沼地のほうがオリョールの黒土よりずっと立派になってしまうのである。

分与地(надел)――1861年3月5日に公布された農奴解放令(2200万の農奴を解放した)によれば、農奴は人格的に解放されるだけでなく、土地を付けて解放されなくてはならなかった。しかし人格的には無償で解放されても、その分与地に対しては支払いの義務が伴った。そしてそれは(一部西部諸県を除いて)農民個人もしくは個々の農家に分与されるのではなく、まとめて共同体に引き渡されたので、支払い自体が共同体の連帯責任とされた。スモレンスク県ドロゴブーシ郡スレドヴォ村の貧しい農家に生まれたエフロシーニヤ・パーヴロヴナは早くに父を亡くして、食い減らしのために16のときにお金持ちの農家(「馬を一頭持っていました」)に嫁がされた(「エフロシーニヤ・パーヴロヴナの回想(聞き書き)」から)。

8月1日

 歴史とは絶対的正義と絶対的不正義(悪)の力の現われ〔闘い〕だ――これがまあ自分の歴史観と言っていいものなのだが、ではこれの基を形づくったのは何だったのだろう? イロヴァーイスキイの教科書*1か? ひょっとしたらドゥーニチカ〔ナロードニキの教育家だった従姉〕の倫理観だったかもしれないし、ひょっとしてひょっとすると、単なる修学上の教えやら道徳やらお説教みたいなものだったかも。闘う二つの力だってどっちも正しい、のかもしれないである。しかし、そういうことは誰も教えなかった。もしかしたら、そんな目〔歴史を見る目〕を養い育てたのは、われわれ生徒が教育者たちに悪を見たギムナジウム*2という制度そのものだったかもしれない。未来のセクタント、(一語判読不能)、アナーキスト(文官)たちを産んだ教育システムだ。

*1世界史およびロシア史の教科書。歴史家ドミートリイ・イロヴァーイスキイ(1832-1921)の教科書は、帝国時代に広く使用された。

*2帝政ロシア・ヨーロッパなどの中学校。ロシア語ではギムナージヤ。古典中学校(ギリシャ語・ラテン語の学習を重視し、1871年から8年制)と実科中学校(古典語のかわりに実科を主とし、数学・物理・生物・機械技術を重視した)の2種があった。プリーシヴィンはエレーツのギムナージヤを退学になったので、国内の大学への進学は許されず、やむなく地方の実科中学を転々とした。ついでに言えば、前出の作家ソコロフ=ミキトーフの場合は、実科中学を退学させられたあと、農業学校に入り直しているが、結局断念し、遠洋航路の船員になった。

 父親殺し。居酒屋でひとりの馬喰(ばくろう)が父親を殺そうとしている。自由にさせてくれないからだ。あるインテリゲントもまた自由の名において、父親らしいもの、父親の生き方(ブィト)を亡きものにしようとしている。(貴族のローヂチェフと商人のイグナートフが手を組むのだ)。じつは、彼らがやっつけようとしているのは、父親のブィトではない。その日常的なブィトに非日常的な何かをこね混ぜようとしているのである。では何を? 自由をか? いやブィト〔父〕は死ぬどころか、フロックを着込み、駝鳥の羽飾りなぞ付けて、今も出歩いている。

フョードル・イズマーイロヴィチ・ローヂチェフ(1853-1932)は立憲民主党員(カデット)で、指導者のひとり。イグナートフ家はプリーシヴィンの母方の、商才に長けた旧教徒(スタロヴェールィ)の一族。

8月5日

 新聞を読み終わって、そのあと恐ろしい夢を見た。突進する傷だらけの赤い雄牛。巨人が近づき、拳銃をズドン、傷口に何かを突っ込んだ。ぐらっときて、雄牛はその場に倒れる。朝、夢の謎解き――雄牛がロシアなら、処刑者はチュートン人〔ゲルマン語派の言語を話す人、とくにドイツ人〕だ。
 コヴナ〔コヴノ、ネマン川のあたり〕に――またペテルブルグにも、神のご加護のあらんことを! それにしてもドゥーマの議会はなっていない!
 内部のドイツ人についてのレゲンダ。

内なるドイツ人(внутренний немец)。大戦中にロシア帝国内に留まったドイツ人たちを指す言葉だが、政治的にも心理的にももっと複雑なニュアンスを含んでいる。ドイツ人でないが一貫してドイツとの戦争に反対したラスプーチン、ドイツ出身の皇后アレクサンドラ(よく「あのドイツ女」などと陰口を叩かれた)なども〈内なるドイツ人(またはスパイ)〉と見なされた。

コヴナの占領

 コヴナが占領下に入った。いずれはリガも、ペテルブルグだってどうなることか。まあでもわれわれは無事だろう――偉大なるかなロシア! しかし行進するドイツ軍の尻尾が見えない。なぜなのか? 敵の力量が――思考しかついっさいを感知する細胞を有する原始生物の正体が、今ようやくわかりかけてきたところだからである。
 思い出されるのは戦場での体験だ――あの巨大なオルガニズムの圏内に踏み込み、その細胞たちとぶつかったこと。看護婦のマーラ、道に迷った獣医、経理課長(医師)と看護婦、カトリックの司祭、ポーランド女ほかいろいろのこと。

 内部のドイツ人。彼らは初めのうちこそ前線へ出たが、そのうちドイツ系の姓を持つ連中に、やがて商人たちに立ち交じって、最後にはこんなことを言われていた――おまえは考えたんだ、内部のドイツ人なんかここにはいない、と。ところがそいつはおまえと同じテーブルに就いて同じ食器で飲み食いしてるじゃないか。もうばれてんだよ、ドイツ野郎は出て行くべきなんだ。

 子どものころのわが家、部屋の配置など、驚くほど鮮明に思い出した――食堂も、二階へ通じていた階段のあたりも、ホールも。が、客間のところで疑問が生じた。客間は『戦争と平和』のあれかな、いや『アンナ・カレーニナ』に描かれているようなやつだったかな、それともオネーギンが愛を告白するタチヤーナの部屋? ああ肱掛椅子がある……あの肘掛椅子で愛の告白があったのだが、それは誰だったろう? サーシャとナターシャか? ということは、それはわが家の客間であり、そこで自分はわが家の客間にヒーローたちを招じ入れて、ともかくいっぱい長編小説(ロマーン)を読んだということだ。

 ワルシャワが占領されたとき、人びとはあれこれ噂をし合い、自分も一度ならず問いただされたことがあった。――ワルシャワは占領されたが、どうやらわが軍が取り返したようだね、ほんとかい? コヴナのときとそっくり同じ言い方である――再度わが軍が奪還したかのように。リヴォーフでも、ペレムィシのときも。なにやら聖書〔イエス〕の、三日目の復活といった感じ。

 90歳の古老の話には目撃者の鮮烈さがあった。フランス人をどうおびき出し、そのあとどう追い出したか。戦争〔1812年の対ナポレオン戦争〕はナロードの記憶にはっきりと残っていた。もっとも、古老たちだってまだほんの子どもにすぎなかったわけだが。フランス人はおびき出されたのだ。そして今、ドイツ人も〈同じ手で〉おびき出されている、ようだ。

 戦争――それはモーゼの五戒の理想へ人びとを回帰させること。どうやらわれわれはとうの昔にそれら戒めを、その子どもじみた中身を越えて越えてまた越えて、三たび四たび、いや七たびも《汝、盗むなかれ》はなお未解決のままである。戦争は五戒からさえ無限に遠ざかった段階、すなわち《殺すなかれ》――これはとてもとても達しがたい理想だ――への回帰を意味している。そのかわり生きものの世界の道徳である、たとえば、上司への敬意、忠実、友情は戻ってくる。搾りたての牛乳の表面に固まったクリームのように、最良の相伝のもの(父祖伝来のもの)は、軍とともに現状維持し、銃後はみな戒の理想の叶わぬ夢の中である。

旧約聖書・出エジプト記20章13〜17節。13、殺してはならない。14、姦淫してはならない。15、盗んではならない。16、隣人に関して偽証してはならない。17、隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、驢馬など――隣人のものを一切欲してはならない。

 キリスト教の戒律とモーゼの十戒(じっかい)はあからさまな公式となった。戦争がそれに内容を与えて、決まり文句が生きものみたいになりつつある……(《死もて死を》)。

 幼年時代。エレーツの変人たち。彼らには事業だのエレーツ市だのではカヴァーできない何か過剰なところがある。それで彼らは一風も二風も変わっている――コスチュームしかり食物しかり。

 8月14日の新聞を受け取る。ドイツの宰相ベートマン=ホルヴェーク*1のセンチメンタリズム。ドイツの榴散弾がロシア側の塹壕を粉砕する(ロイド=ジョージ*2)。ユダヤ人居留地、官営ヴォトカ専売所〔通称カジョーンカ〕、言論の自由、所得税。ロシア軍をピンスクの沼地に追い込もうとしている。ロシアは危機的状況にある。

*1開戦当初(1909〜1917)の帝国宰相、プロイセン首相。

*2ロイド=ジョージ(1863-1945)はイギリスの政治家。1916年に連合内閣を組織、戦争完遂に努力した。

 リガからの避難民が市の荒廃ぶりを語る(タルノーポリ、リヴォーフ。かつて自分がガリツィヤで目にしたものが、今やこの地にまで及ぼうとしている)。スターラヤ・ルッサ(!)の防御施設のこと、ソレーツカヤ街道の閉鎖の噂、いずれペソチキ村も前線になる云々。至るところでドイツ軍を待ち構えている。当然、信じているのは自軍の最終的勝利……装備(砲弾その他)の〈まずさ〉こそ露呈したけれど。

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