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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 03 . 13 up
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3月23日

 待ちに待った坊さんたちのご到着。輔祭は少しもじっとしていない。口から発せられるそのことばはまるで手提げ香炉(カヂーロ)。パッパッと煙を吐いてはどこかへ行ってしまうので、あれもうお仕舞いか火は消えたのか、と思っていると、また戻ってきて、またまたパッパパッパと煙を吐き出す。輔祭は坊さんにはひとこともものを言わせず、坊主は輔祭に遠慮している。要するに、びくびくしている(ウトゥーリチヴイ)のである。卵ののっかった皿が出された。坊さんが玉葱みたいな卵を置くとすぐさま、輔祭はそれを手にとって、しばらくじっと観察――割れたやつは要らないとばかりに。それでようやく、木でできたような、小さい、形のいい卵を選ぶ。そのときは誰も気にしなかったが、あとになってみなは、輔祭がそれを〔勝手に〕持ち去ったことに気がついた!

3月25日

 聖母受胎告知祭。朝も夜もマロースで、もう春はもたない。夜半にちょっと冷え込むと、そのあとズズンと厳しさを増して、必ず雨になる。雪が尻込みするのだ。ペソチキ村へ移る準備をしている。

3月25日(新暦4月7日)。天使ガブリエルがマリアに処女受胎を告げたとされる日。

 ミヤマガラスの飛来〔ミヤマガラスは春告げ鳥〕。もう夕方だ――これでは昼などなかったみたいではないか! 張った氷の上を水が流れていて、穴〔釣り用の〕まではとてもたどり着けない。岸近くのうっすらと青みがかった針葉樹の森は、侵出してくる白樺のせいで、いよいよ影が薄くなってくる。大気に平安(ミール)の気配――漂っているのは、人間の平和(ミール)ではなく、とことわのミールの予感。川の向こうで男の子たちが何か叫んでいる。艀の陰に女の子たちが隠れている。かくれんぼをしているのだ。凍土がようやく融けだした。ミヤマガラスの群れが、水を呑もうと、土手づたいに低空飛行している。
 動きと発見、動きと歓び。春がいつどう始まるのか、とても見届けられない。
 春の最初の兆しはいつも、触れ合い、生命との最初の接触。愛が可能なのは、最初で唯一の触れ合いにおいてだけ。同じものを二度愛することはできないが、新しい触れ合いと新しい愛を体験することはできる。春――それは新しい世界への、われらの世界への、とことわに新鮮なワン・タッチ。
 愛するとは同時に世界を知る唯一の方法である。愛するとは即ち知るの始め、それから知る(знать)がやってくるのだが、それには苦(страдать)も付いてくる。だが、最後の苦には再び、最初の認知(узнание)の、最初の愛の、新たな始まりがあり、そんなふうにとことわに、古い知(знание)と苦が新しい認知と新しい愛に、冬が春に、取って代わるのである。
 樹は孤立しヒトは孤独だが、いちめんの冬の雪の上をさ迷い歩く孤独な最初の春との出会いは、みな一緒なのだ。ちっちゃな孫娘はたいしたものだ――馬に小枝のムチをあてて、立派にお婆さんを運んでいった。まるで春が冬を連れて行くようだった。わたしが『まだ小さいのに、おまえさんはえらいねえ!』と褒めてやると、お婆さんはぷっと吹き出し、こんなふうなことを言ったようである――『なぁに、孫がえらいんじゃねえ、〔馬が〕勝手に連れてってくれるんだよ』。婆さんなど は自分に始末をつけたら〔冬の終わり〕、あとは驚いたり喜んだりするしかないのである。

『自然の暦』(邦題『ロシアの自然誌』の春の章(1926)には、移り行く季節の擬人化(ロシア独特の言回し)がぽんぽん飛び出す。「冴え渡った満天の星月夜。冷え込みがいちだんときつくなった……戸外(そと)はどうかと出てみると、ちょうど隣のお年寄り(彼は農民である)も用便に立ったところである。『冷えますねえ』わたしが声をかけた。相手はすぐには返事をせずに、あたりを見まわす――雪、星空。あとは何もない。それから、足でトンと地面を突くようなことをやって、ようやくそこで寒さの話になった。『これは孫が爺さんを迎えに来たですな』。わたしは雪の中を歩いてみた――べつに埋まりはしなかった。『なかなかしっかりした孫ですよ』、わたしは老人にそんなことを言い、それから子どもたちを起こしに行った」(「キバシオオライチョウの繁殖地」から)

 保守主義者とは、より良き破壊のための条件(環境)をつくる人たちのことである。保守主義者の目に永遠のハーモニーや秩序のかたちで映るところの、破壊のための合法的かつ理想的な何らかの条件(環境)が存在する。彼らが夢見ているのは破壊の法と秩序なのだ。ちゃんとした保守主義者は、因循姑息の保守性などでは全然ない、法の理想を生きているのである。彼にとって、新しいものがすべて本質的には嫌な〔わけではなく〕、ただそれが理想的で新しいということそれ自体を羨んでいるにすぎない。保守主義者は偉大な理想主義者(イデアリスト)なのだ、むしろ革命家よりも。保守主義者はつねにイデアリスティックであり、革命家はプラクティカル。だからこそ革命家はつねに勝つのだ。
 してまた、高く堂々たるそれらの峰々があくまで高く堂々としているのは、彼らが観念論的で理想主義的だからなのだ。それら高い不動の山々を取り崩そうとするのは、高いもの、観念論的で理想主義的なものなどではなく、ただもっぱら生気に満ちた、広大にして自由奔放なもの、すなわち水と風なのである。

3月26日

 春の新しいエタップ。最初にヒバリが囀りだし、原っぱの雪の融けた地面に舞い降りたが、うち一羽が早くもぐんぐん昇っていった。コクマルガラスは、ミヤマガラスを迎えるときも見送るときも、群れでやる――まるで冬のあいだの出来事を報告でもするかのように。何かぺちゃぺちゃ喋り散らしながら、鴉を追い払ってしまう。水の音。川へ落ちる水の音――不意に列車が通過するような。
 「ヒバリ、ムクドリ、ミヤマガラス、ハヤブサ、トビ――ここにはなんでもいるね。なぜまたこうも一気にやってきたのかな?」
 「いや、もともとこいつらはここにいたんだ。姿を見せんかっただけさ」

3月27日

 深夜に雨。朝方、お百姓たちは薪を担いでなんとか川を渡ろうとするが、できなかった。彼らの頭上をカモメが舞っていた。
 ペソチキ村へ移る。リョーヴァと歩いた。風が光っている。鋳鉄炉。遊牧民。ズアオアトリは1羽残らず広葉樹の小さな林の中だ。原っぱの雪の融けたところには、ヒバリが黒雲のようにかたまっている。ムクドリの群れと、そのあとにカモの群れ。

3月28日

 深夜、マロース。朝、雪の中を〔這いずって〕森に入る。正午の雨、夜まで降り続いて、夜っぴて(土砂降りだ!)

3月29日

 朝、日が照って、涼しい。北西風。川面に氷が、岸の青い水に最初の恐るべき氷塊が、浮上。小川の氷の上につくられた道、若いエゾマツ、氷にあけた穴――どれも冬の思い出(冬の道が消えようとしている)。

3月30日

 夜半のさほどでないマロース。午前中ずっと融解を押さえ込んでいたが、正午には日差しが勝ちを制した。風、さわやかに踊る。針葉樹の林のあたりは、とても日当たりがいい。
 きのう、フィラートコヴォ村をあちこち巡った。雪はぼろぼろ、あっちの森こっちの森と深く分け入った。沼地は崩れた穴が二重になっている。クロライチョウのフィウーフィウー〔鳴き声〕、ネコヤナギ〔ヴェールバ〕の花、真っ赤な空焼け、長靴、スキー履き。
 「ヤマシギってのはな、窓の下のイラクサが伸びだしたら、そりゃ間違いなく、列をなして飛んでくよ」
 ユキノウサギがぼろぼろの雪をほじくっている。全身すでに灰色で、尻のあたりにほんのちょっぴり白い毛。
 きょう、6時から7時のあいだに氷が流れ始めた。確かな流氷だ。クームの水(洗礼親(クーム)になるの)は氷を迎える水で、渦巻は逃げようとする水。流氷の堆積(ザトール)。対岸の根かせ〔土手の補強杭〕に(詰まってしまった)。雄鶏が泳ぐ――大した雄叫びだ。これぞわがヴェレビーツカヤ村の街道〔流氷の川のこと〕、氷穴からピュ―ッと噴水が上がる。ずっと向こうを流れていくのは、丸太とまぐわ。
 「氷が行くぞォ!」ありがたい。流れはきわめて順調なり。旧いものがどんどん流れ下っていく。音だけ聞いていると、はるか向こうで合戦か?
 干戈の響き? なにやら遠くの戦場を思い出させるような音だ。世界戦争……どうやら防衛線を突破された旧世界が押し流されていくようである。根かせのあったあたりで、小川と小川が合流した。そこは水がひょいと身を隠す(ユールカチ)ので、それで〈潜り込み(ユールカ)〉と呼ばれている箇所。ポポフの島(坊さんの島)というのもある。お百姓にとっては役立たずの川洲だった――そんなものは坊主にでもくれてやれなどと嗤っていた――が、次第に大きくなって、坊さん1人分の川洲が今では坊さん3人分の大きな島になっている。
 流氷開始の瞬間を誰も見ていない。あっちこっちで三角網を沈めていた川漁師たちは、泡を食って岸に戻った。

 自然科学を学ぶ人間〔プリーシヴィン自身もそうである〕の歓びはどこから来るのか? 彼らはじつに陽気で楽天的――その歓びは彼らの特権だ。

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