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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 11 . 14 up
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10月2日――2日目のリヴォーフ市。

 高等中学生(ギムナジスト)の話――いつもロシアのことを夢見ていた。ロシア語もこっそり勉強し、自身、非合法のサークルで教えてもいた。勝つとは思っていなかった。というのも、ヴェレサーエフを読んで、ロシア崩壊のイメージができてしまっていたから。宿の女中が真面目な顔して中学生にこんなことを訊いている――「モスカーリ〔ウクライナ、白ロシアに住む大ロシア人や兵士に対する渾名〕は一つ目だってことだけど、尻尾があるってのは本当かね?」。中学生は革命家だった。ロシア語の蔵書はすべて(250冊)灰になり、ロシアの地図を所持できなかった(権利がなかった)。音楽に関心があって、礼拝歌も作っている。文献学者になるのが夢だが、今は神学校への入学を勧められている――聖職者はガリツィア人でなければいけないので。リヴォーフ市民は8月21日まで、ロシア軍が150キロ先へ追いやられたと思っていたらしい。22日に3人のカザーク、そのあとまた何人か、そしてついに軍隊が入ってきた。花とぶどう酒で迎えたが、顰め面をした人間もいたことを忘れてはならない。自身、軍隊を目にしてすぐに気がついたのは、なんと強そうな元気溌剌たる兵士たちだろうということだった。リヴォーフでよく歌われたのは、口笛まじりの《誰があたしの捲毛を》〔(三十二)に出てくる〕である。

ヴィケーンチイ・ヴェレサーエフ(1867-1945)――作家・医師。早くからの非合法マルクス主義者。ナロードニキ運動の破産とマルクス主義の正当性を主張。

 Мによると、Пでは子どもたちが教会のまわりで吊るされ、ジョールコヴォ村でも子どもたちが銃殺されたという。ボーブリンスキイ伯〔占領地の新任総督〕自ら、ポチャーエフスキイ大修道院詣でゆえに牢屋にぶち込まれた75歳の老婆と女とその赤子、その他を解放した。こういった事実から、ガリツィアの民衆には、実際にロシアに対する信頼のようなものがあることがわかる。
 ポドヴォロチースク。
 われわれが乗っていたのは、ごく普通の大型荷馬車(フーラ)である。上の方が幅広く、下が狭い。分署長と二人の請負業者、それとわたしの4人。藁山に体を沈めたまではよかったが、どうにも居心地が悪い。
 「なに、大丈夫!」と、ホホール。「ああ、でもやっぱり崩れてくるかな」
 じっさい、藁山はすぐに崩れてきた。わたしたちは隅の方に身を寄せ合うようにして、ともあれ《リヴォーフへ向けて》出発した。
 4露里ほどを、ヴォロチースクの大村の家並みを抜け、野を越えて、ようやくロシアとオーストリアの国境にたどり着いた。そこは自然の境界だ。川があり、右にぐうっと広がって、池と水車小屋。左手にも小さな川。釣り人がいる。2人、3人、いや4人か。戦争など知らぬげに釣糸なぞ垂れている。わが国の境界柱、オーストリア側の境界柱、打ち壊された〔防柵〕、侵犯された国境。わたしたちは今、新占領国にいる。まさにここから無残な破壊の光景が始まるのだ。焼け落ちた家屋、砲弾で崩れた壁、壁に残る弾丸の痕。弾痕は至るところにある。なのになぜか、そんな痕跡(きずあと)をもっともっと見たくなってくる。弾痕のない壁に出会うと、悔しくて、目はすぐに別の壁に移っていく。あとで聞かされたのだが、破壊された大邸宅は砲弾によるものではなく、地元の略奪者たちが〔犯跡をくらますために〕火をつけたのだ。軍隊に続いて現われたのがギャング集団――降って湧いたようなそんな輩が一切がっさい盗み出してはロシアで売り捌いたり畑に埋めたりしたのである。それは碌でなしどもが徒党を組んで火事場に現われたようなもの。とことん不幸な、とことん破壊し尽くされた人たちから、最後のものを掻っ攫っていったのだ。

 わたしが最初に見たウニアト教会は、まるで西と東の粘土を捏ねて造ったような、かなり立派なものだった。それで、それがカトリックの寺院〔ポーランド〕か正教会の教会か区別がつかないほどだった。もし二発も砲弾を浴びた本当の寺院を目にしていなかったら、わたしもそっちをカトリック寺院だと言っていたかもしれない。

東方帰一教会。ギリシア正教会固有の言語と典礼を保持しながら、ローマ教皇〔カトリック〕の首長権を認める。


編訳者によるエッセイ(四)

 

二人の従軍記者

   1914年6月15(28)日、日曜日午前11時過ぎ、ボスニアの首都サライェヴォの街に数発の銃声が轟いた。人類未曾有の大戦に至るまでの助走はきわめて短く、速やかだった。まずオーストリアがセルビアに最後通牒を発し、翌月、ドイツがロシアに最後通牒を突きつけて、オーストリアの軍事行動の決意を支持、時を移さずロシアに宣戦布告した。すかさずロシアも対独宣戦を布告し、総動員令を下す。ベルギー中立宣言。独仏交戦。イギリスが参戦し、ノルウェイ、デンマーク、イタリアは中立を宣言。9月、マルヌの会戦で西部戦線が膠着状態に陥り、すでに対独・墺に宣戦していた日本軍が山東半島へ上陸。10月、トルコが連合軍(露・仏・英)に対して宣戦し、アメリカ合衆国は中立を宣言した。
 セルビア民族主義者の銃弾がオーストリア皇太子夫妻の胸を撃ち貫いた時点でも、ロシア政府はそれが自らの破滅への第一歩になるとは思ってもいなかった。 
 ロシア軍の初攻勢は8月17(30)日のタンネンベルク(東プロイセン)の大敗で終わった。ロシア軍はよく戦ったが、これは仏英軍のために戦ったようなもの、自軍のためにはならなかった。タンネンベルクは、現在のポーランドのワルシャワとグダニスク(ダンツィヒ)のほぼ中間に位置する戦場である。ここでのロシア軍の死傷者数、17万余。
  作家のプリーシヴィンは1914年9月24日、従軍記者として戦地に赴き、10月18日に引き揚げている。このときの前線はロシア軍が前進を続けていたオーストリア(ハプスブルグ帝国)領のガリツィアである。すでに自軍は8月21日(9月3日)に拠点のリヴォーフを占領していた。ガリツィアと呼ばれた地方は西ウクライナとポーランドにまたがる広大な地域。プリーシヴィンはキーエフの西南に位置するヴォロチースク、チェルノーポリ、リヴォーフを鉄道や馬車で移動した。その戦地ルポは「ロシア通報」「談話(レーチ)」「株式通報」各紙に掲載。最近になって、ようやくその一部が一冊にまとめられた(『花と十字架』・2004・ペテルブルグ)。
 彼から2週間ほど遅れて、やはりロシア側から東部戦線を視察した日本人記者がいる。大のロシア通ジャーナリスト、大庭柯公(かこう)である。大庭柯公は1872年(明治5年)、山口県生まれ(プリーシヴィンより一つ年上)。早くからロシアとロシア語に興味を示し、二十代でウラヂヴォストークに渡り、帰国後、参謀本部の通訳官を経て、大阪毎日・東京朝日・読売などの記者として大活躍した。革命後の1924年(大正12年)、シベリア経由でモスクワへ向かったが、以後ぷっつり消息を絶った。今もって謎のままである。
 大庭柯公が他の数人の外国人記者とともにたどったのは、最終目的地こそプリーシヴィンと同じガリツィアだが、コースはもっと北のヴィリノ(リトワニアのヴィリニュス、当時はロシア帝国領)〜リーダ〜大本営のあるB(地名秘匿。ここで参謀総長ヤヌシケーヴィチ、ロシア軍総司令官ニコライ・ニコラーエヴィチ大公に面会)〜ロヴノ〜ガリツィア〜ワルシャワ経由で戻る。時期は14年の10月末から11月上旬まで。従軍とはいいながら、二人の記者の仕事は開戦初期の占領地における戦跡視察である(プリーシヴィンは民間の新聞記者として)。プリーシヴィンは翌年2月に再度前線へ。すでに丸腰では危険すぎる従軍であった。
 最初の10ヶ月で、ロシア軍の死傷者は380万人に達した。

 

10月2日

 通りは破壊されて、がらんとしている。ぶらついているのはユダヤ人の小さなかたまり(クーチキ)。仮庵の祭り(クーチキ)ということで、みな、独特の、ブリンみたいな円い毛皮帽をかぶっている。
 「狂信者(ファナーチキ)だ!」
 そう言い放ったのは、同道するわれらが巡査である。
 どうして連中が狂信者だと思うのかという問いに、彼は答えた――
 「あいつらはハシドでツァディクだからね
 ハシドでツァディクというのは何だろう? 巡査はわたしにこう説明した。
 「要するに、狂信者なんですよ」
 それから後も、道みち話題はそればかりである。その奇妙な帽子、独特の垂れ髪、丈の高い黒いフロックコートに身を包んだ本物のユダヤ人を目のあたりにして、巡査の声は少しも収まらない――
 「狂信者だぁ、どいつもこいつも!」
 説明といっても、ハシドだツァディクだと、ただそればっかり。

ヘブライ語のハシドは純粋、敬虔の意。ハシディズムとは、合理主義に反対し神秘主義的な神の認識を可能とするユダヤ教の新思潮。ポーランドの東部に18世紀半ばに登場。次第に中・東部ヨーロッパに普及した。ハシディズムはタルムード(ユダヤ教の重要経典。トーラーの解釈を記す)の学識をあまり重視せず、代わりに熱い祈りや神への喜ばしい奉仕、日常の敬虔さを強調した。ハシドの共同体を率いたのがツァディク(ヘブライ語で賢者、奇蹟をなす者)。その権威は神秘的な秘伝と奇蹟をなす力への信仰に由来する。

 そのハシドでありツァディクである人たちと目が合うのは、なんともバツが悪かった。目が合えばお辞儀をしてくる――敗戦国の人間の歓迎の挨拶だからだ。そんなユダヤ人のひとりに、警察分署はどこかと訊いたら、市役所(ラートゥシャ)〔小さな町では裁判所を兼ねる〕を指さした。警察署では通行証が発給されず、徒に引き留められて焦ってしまう。思ってもみなかったが、まさしくそれが現実である。市役所の前には荷を満載した馬車が何台も停まっていた。入口の段々にもえらい数の立ちん坊。じつにさまざまな人間――ロシア人、ルシーン人、小ロシア人、モルダヴィア人、トルコ人、アルメニア人、それもほとんどが年寄りの商人(あきんど)――が、何かを待っていた。あとでわかったのだが、彼らはみな通行証を手に入れるために郡の責任者を待っていたのである。役所の中はさらにごった返していた。しかし小さなデスクに向かっていたのは、まだ若いふたりのユダヤ人――エンジニアと商人(コメルサント)だけ。今は仕事にあぶれているので、〔警察の〕書記がやるべき通行証の発給を一枚いくらで引き受けているのだという。
 わたしたちは待った。朝から晩までずっと、うんざりするほど待たされて、話の種も尽きてしまった。トルコの臣民は、ハルワ〔落花生、糖蜜、砂糖などを固めた菓子〕、葡萄、林檎、レーズンその他をあきなう店(ブズニャ)を開くためにリヴォーフへ行こうとしていた。黄色い顔に燃えるがごとき黒い瞳のモルダヴィア人は、レストランで運試しをするのだ。馬車には食料品やお茶、砂糖、穀粉(これがいちばん多かった)が山と積まれている。納入先は軍とホテルがほとんどである。そこにたむろしていたのは、ありとあらゆる納入業者だった。昔ながらの小ロシア人の本物のチュマーク**の姿もあった。あるとき、どこか田舎町を移動中のこと。川のほとりで軽く食事を済まし、食べ残しを流れに捨てたところ、どこからともなく鴉が現われた。一羽また一羽、あっと言う間にもの凄い数! どうやって鳥たちは知るのだろう? 仲間同士の情報の伝達。まったく驚かされる。 いくら醜い厭な生きものでも、ちょっと話をしてみたくなるではないか――でもまあ、そう深い話にはならないだろうが。そこは声のいい美しい鳥も同じ。鴉だって単に喰いたい、要するに飢えているにすぎないのだ。ともあれ凄まじいのはその数である。いったいどこからそんな情報を得たのか。なんとも素早いその適応力! 人間そっくりだ。わたしは、純朴そうなチュマークのひとりに問うてみた――いったいなぜ、どうして戦場なんかへ出かけるのか、それで荷の中身は何?   「玉葱を運んどります」
 とさか頭のホホール〔ウクライナ人が前髪に房をこしらえていたことから、その蔑称のち愛称に〕が答える。
 戦争だというので、まず真っ先に玉葱を掻き集め、麦粉と砂糖も少々積んで出たという。彼はまた新しきロシア(Новая Россия)についても話した。〈新しきロシア〉が始まったらしい。ついでにそれも見てみたかった。とにかくそこへ行ったら自分の仕事も見えてくる――そういうことであるようだ。

ガリツィアの州都。リヴォーフはロシア語読み、ドイツ語でレムベルク、ポーランド語ではリヴィウ。

**鉄道開通以前、クリミヤやドン地方へ牛車で穀物を、帰路に塩や魚を運んだウクライナ、南ロシアの運送業者。

 依然として通行証の発給責任者は姿を見せない。
 「大丈夫、やって来ますよ!」
 と、ユダヤ人の書記たち――
 「ただし、ロシアとはそこが違うところです」

 ようやく許可証を手に入れる……

 許可証がポケットに収まってしまうと、ほっとして、きのうのことはもう記憶の彼方である。
 「まあいいさ、たった一日だ!」
 きのうのことを思い出したのは、ひとり年配の請負業者だけ。それですぐにこう言い添えた――
 「なんてったって歴史の現場だからなあ」
 警察官はぶるっと体を震わせた。
 「現場だって? いったい何を言っとるんだ?」
 「行ってこの目で確かめてみる。ひょっとしたら、そういう現場になるかもしれんから」

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