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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 11 . 07 up
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 10月1日――夜12時、リヴォーフ。7時、ピドガイニキ。昼12時、ズラーチェフ〔ゾーロチェフ〕。朝9時、ズボーロフ。
 9月30日――夜9時、ズボーロフ。昼2時、タルノーポリ。8時、ヴォロチースクを出る。
 9月29日――ヴォロチースクからポドヴォロチースクへ。そして引き返す。
 9月28日――朝9時、ヴォロチースク着。ホテル・スラヴャンスカヤに投宿。
 9月27日――12時、キーエフを出る。

 

〔編訳者注――路線はキーエフ〜ヴォロチースク〜ポドヴォロチースク〜チェルノーポリ〔日記ではタルノーポリ〕〜ズボーロフ〜ゾーロチェフ(日記ではズラーチェフ)〜ピドガイニキ〜リヴォーフ。以上のメモから、これが記憶をさかのぼって記されたものであること、一度ポドヴォロチースクからヴォロチースクへ引き返し、翌日ズボーロフまで行って、もう一度ヴォロチースクに戻っていることがわかる。ただしキーエフからヴォロチースクまでの行路については未詳。考えられる妥当なコースとしては、キーエフ〜ジトーミル〜ヴィーンニツァ〜フメリニーツキイ〜ヴォロチースク〕

 村――ズボーロフからズラーチェフまで森。古い教会と橋を有する村。タルノーポリ――葦原から一羽のカモ、ミヤマガラスの群れ、鵞鳥が飛び立つ。槲、薔薇、ヒヤシンス。ズボーロフには軍馬の待機。戦雲暗く垂れ込めたポドヴォロチースクからタルノーポリまで、さながら缶詰の箱、マホルカの梱包を追うかのごときその様は、わが野と黒土とかすかに波立つ地平の海波。カザーク騎兵中隊の陣列、それはすでに一幅の絵である。地平線上にアリエルガルド(後衛)の騎士、アヴァンガルド(前衛)にはユダヤ人ふう恐懼の尻込み。馬がよく暴れる。
 蒸気脱穀機。(一語判読不能)が破壊された。この絵の陰に何が隠れているのか。ライ麦の収穫は〈まだ〉なのか〈もう済んだ〉のか、このあと種を蒔くだけなのか、まったく蒔いてないのか――なぜか放置されたままの穀類もある。

 タルノーポリ。写真、最初のロシアの小店、最初のロシア人の巡査。一団(クーチカ)のユダヤ人――彼らの仮庵の祭り(クーチカ)の最終日、ファナティックな帽子〔ケナガイタチの毛皮帽〕、ユダヤ人の弁護士、判事、インテリ――彼らの間には深い溝があって、つまり、われわれのような結束、一致団結というのがない。ポーランド人たちはユダヤ人の債権者だ。湖はロシア民族の魂であり、そこに映るのはポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人。
 タルノーポリまでは、ホホール〔ウクライナ人〕、タルノーポリのあとはルシーン人。彼らとの会話はヴォリャピューク語だ。ロシアの商人たちは何語でも話す。

ヴォラピュークが正しい。ドイツ人司祭シュライエルが1879年に作った人工国際語、またちんぷんかんぷんの意でもある。

 ズボーロフからは、かつて知ったるワガモノの、つまり主(あるじ)の感覚。監督官は自信をつけてくる。ポドヴォロチースクの犬たちは村から逃げて、みな原っぱにいる。
 監督官の心理学。すべてに対して自分の意見と(一語判読不能)を持つというこの心理学! 浅はかなものが深く根を下ろし意義を生ずるこの、自信というのか確信の力というのか、そんなものが、カルパチア山脈を登るにつれて、いよいよ増してくる。たとえば、この恐ろしい(いたずら好きの)もったいぶった小ロシア語〔ウクライナ語〕、たとえば、ロシア式の罵声〈この馬鹿者(ドゥラーク)!〉。と同時に、へりくだった傾聴と、おのれの愚かさ加減のなんとも頼りない自覚がある。解放計画――キリスト教的のそれ。出会っても、巡査(たまに敬礼する者もいるが)も村の駐在も、礼の何たるかがわかってないから、黙って素通りだ。右だ左だと罵り合う(ロシア人の習慣は左側通行だが、いきなり「右だ!」と怒鳴ったり)。自動車は恐ろしい。泣き声、悲鳴…… 
 わたしは、動揺する(この動揺は地位や身分からくるのではない)監督官に、公僕たらんとすれば国というものを知らなくてはと諭した。
 リヴォーフ市。ドイツの町あるいはキーエフ。高層の城館。看護婦、売春婦、女衒(ぜげん)、(一語判読不能)たちが、夜の8時を過ぎると集まってきて、赤十字の灯火の下で小さなオルガンを鳴らす。開けっ放しの路面電車で重傷者を運ぶ。黒眼鏡をかけた盲目の女がひとり、下手くそなアコーデオンを演奏している。幻滅顔の請負人たち、誰にも無視されている民兵、どこかで何かを割るような音。木を盗んでいるのだ。積み上げられた切株。城館では、女が二人、こっそり柵を壊している。わが監督官がそれはだめだと言う。おのれの力を示したのだ。誰もが密かに前任者が戻ってくることを願っている。ある将校は、ルシーン人のどっかの村で自分たちがオーストリア人と間違えられたと語る(民衆にとっては、オーストリア兵だろうとロシア兵だろうと構わない、早く片がついてくれればいいのである)。  

 小銭が身を縛る。コーヒー店で役人たちが、安食堂を一食70セント〔цент〕でやっていけるようにしたなどと話している。でも、その70セントをどこで手に入れるのか? 重い大砲を運んでいる。
 全員、ミツキェーヴィチの記念碑のまわりに。

アダム・ミツキェーヴィチ(1798-1855)――ポーランドの詩人、文学・社会批評家。学生時代にロシアへ追放(1824〜29)され、当地でプーシキンらと交わり、のちヨーロッパ各地を転々。代表作『クリミア=ソネット』(1826)―これはべラルシア・ウクライナの民謡と自然に取材したポーランドにおける最初のロマン主義詩。青年の独立や自由への憧れを謳った詩篇『祖父たち』、一大叙事詩『パン=タデウシ』など。

 ロシアの軍隊が町へ。住人はみな通りへ。パレードさながらだ。こんなことを口々に言う――カザーク兵には林檎とぶどう酒を差し上げましたし、花なんかもう数え切れないくらい……。
 窓辺にイコンが――「そうなんです、あたしはイコンを通りからも見えるように置きましたよ」
 傍らを車が疾走……

 キーエフでわたしはあれこれ書類を用意し、すっかり安心しきってガリツィアに赴いたのだが、いきなり国境ぎりぎりのところで足留めを食らった。

〔 〕は抹消箇所――〔そうした場合、戦の場で伝手(つて)も後ろ盾も持たない人間は予備役の准尉に相談するのが最良の方法だ。彼らは大半がインテリだから鷹揚である。しかし上からの指令に〈一切これを許可せず〉とあれば、もう原則としてなんぴとの話にも耳を貸さない〕

 要するに、国境近くでそういう(鉄道使用の禁止)命令が下ったのである。准尉はわたしを通さなかった。
 軍に物資を供給する請負業者、商人、役人たちがターミナル駅で侃侃諤諤――口汚く罵る者、がっくり肩を落とす者、どうしていいかわからずしょげ返っている者。それぞれ(一語判読不能)は搬送されているのに、荷降ろしする人間がいないことになる。ああこん畜生、絶望だ。悪いのは軍の上層部じゃない、上からの電報を至上命令と思っているこのこの准尉なんだ。しかし、われわれはまだ希望を失ってはいない。若い将校を説得する方策をさぐっていた。すると不意に、市警察分署の署長というのが――
 「どうしました、あなたも通行禁止ですか?」
 「そうなんだ。わたしも通してもらえんのですよ」と署長。
 「もうおしまいだ!」これは請負業者たち。
 警察も足留めを食っているなら、どうにもならない。
 リヴォーフまで馬で行くしかない、つまりは考えられる最悪のガタクリ馬車で戦場と化した国を150露里、ということ。
 わたしは署長に同道を持ちかけたが、彼は乗ってこなかった。この旅は危険きわまりない無分別なもの。わたしにとっては大いに魅力ある(さまざまな心理的モチーフ)旅も、署長にとっては沽券にかかわるもののようで、不愉快かつショックなのだ。彼はガリツィアで警官が不足していることを新聞で知っていた……。
 わたしは少々姑息な手段に訴えた。なんとしてでも警官と一緒に移動したかった。拳銃を所持していなかったし、それに〔警官の〕制服だってかなり効き目があるはず。加えて、占領国でキャリアをつくろうとする人間の運命にも関心があった。わたしは、たとえ地位は低くとも、役人にとってそういう国を知っておくことはぜったい必要である――そんなことを諄々と説いた。
 「そうすれば、あなたにはまったく別の視界が開けます。これまでとはぜんぜん異なる業績ですよ。そういうことをよく知っているのは県知事たちです。彼らだって、こうした巡察からキャリアを始めたわけだし……どうしてあなたもそこから始めないのかなあ?」
 要するに、わたしは彼を篭絡しようとしたのだ。なんとしてでも先へ進みたかったのである。
 「わたしは知事になんてなろうと思ってませんよ」
 「どうしてなろうと思わないんです?」
 拳銃を所持する分署長を二人の請負業者ともども同じ荷馬車に乗せようと、わたしは頑張るのだった……。

 今、わたしはリヴォーフ市内にいる。これを居心地のいいホテルで書いている。窓から町の暮らしが見える。大都市ならどこの国でも見られる光景だが、それは表の顔――不思議な心的体験を経た顔にすぎず、新占領国を経めぐったら、大都市のそんな外貌は忽ち煙ごとく消え失せてしまうにちがいない。
 そうした困難な旅を受け入れてくれた運命に感謝している。ようやく今わかってきた――着飾った群衆の中に(窓からよく見える)丸太の切れ端を引きずっている貧しい女がいて、きょろきょろあたりの様子を窺っている。女はどっかからその丸太を盗んできたのだ。小麦粉は手に入れたのに、焚きつけがないので火が起こせないのである。
 だが、わたしは先走りしすぎたようだ。ヴォロチースクはオーストリアと国境を接する駅である。ここでわれわれは通行許可証を手に入れようとした。わたしはここヴォロチースクから、新占領国における自分の尋常ならざる旅の記録を開始しようと思う。ここはありとあらゆるユダヤの窮民が身を寄せ合っているメスチェーチコ。薄汚い南西部によくある大村だ。ここでちょっとした戦闘があった。森の向こうの沼地には、わが同胞の墓の最初の十字架が建てられた。税関、給水塔、それとオーストリア軍侵攻の第一報が入ったとき、わが軍が爆破した建物が幾つかある。その爆破でかなりの数の農耕具が失われた。
  われわれは鉄道医師と一緒にその台無しにされた農具の山を見てまわった。医師は、自分は通信士と二人でしんがりをつとめた(一語判読不明)誇らしげに語った。その後、戦場に戻ったとき目にした凄まじい破壊の跡も、彼を驚かすことはできなかった。彼より先に戻った兵士たちはしかし、度肝を抜かれたようである。割られたガラス、街の無法者どもに荒らされたアパート、もうそれだけで気持ちが萎えてしまった。女たちは、鍵や箪笥や盗まれて畑のどっかに埋められてしまったクッションのことをぶつぶつ言っている。こうしたカオスにあっては、まず心を落ち着かせること、ついで増え続ける厖大な負傷者たちを収容する必要があった。当初、負傷者たちは戦闘直後に直接ここへ(一語判読不能)。ヴォロチースクの補給・包帯所がロシアの地における最初の中継宿舎(エタップ)になった。
 「包帯はいい。ちょっと待ってくれ」――負傷者たちは口々にそう言った。「まずお茶だ、お茶をくれ!」
 あっと言う間に、文字どおり無から、ゼロから、エポックメーキングな《補給・包帯所》が立ち現われた。力を貸そうと、無料奉仕のサポーターが次から次にやって来た。地元の若い娘たちの中には、大きなサモワールを二つも持参する者、8時間お湯を冷まさず供給できるサーモスタットを工夫する者、義捐金を募る者、ヴォルコーンスカヤ公爵夫人に参加を呼びかける者、さまざまな人たちがいて、それはもう誰もがきっぱりっと迅速に対処したのである。
 こうしたことをわたしに話してくれたのはひとりの高等中学の学生(ギムナジスト)だった。彼はつい先日までドイツの捕虜だったのだ。ドイツでの負傷者の後送は想定内のことで、有能な役人たちの手腕に委ねられていた、という。ドイツの市民生活のほうがわが国のそれより被害が大きいし、障害者の数も多い。にもかかわらず、路面電車を使ってやって来る赤十字の面々をかなり冷静に迎えている。わが方はどうかと言えば、公徳心とかこれまで発揮されなかった社会的感情がここにきて一気に罹災者たちに向けられるようになった。
 わたしはヴォロチースク駅の近くのユダヤ人村――警察分署長はその村をしつこいくらいフョードロフカと呼んでいた――に宿泊した。
 早朝。オーストリア人の捕虜たちの短靴は泥に(一語判読不能)。
 「これでも兵隊か!」わたしの道連れのひとりが言った。
 「パンをくれ、パンをくれ!」と、オーストリア兵たち。
 「なにが兵隊だよ、長靴もはかんで」蔑むような一瞥を投げる分署長。それでもパンは与えていた。
 文学部出身の准尉がもうひとり同宿した。彼は自分の輜重部隊から落伍したのだ。宿の主のユダヤ女はしきりにわれわれに、自分がユダヤ人ではなくモルドヴァ人だということを訴え、捕虜たちのことを《あいつら碌でなしども》と言い言いした。要するに、例の戦争のカオスが始まったのである。ぼろをまとった雲霞のごとき〔捕虜の〕群れ、日常生活の諸事実のもつれ、混乱。ヴォルィニじゅうがそうなのだ、新占領地、もう恥も外聞もない。

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