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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 08 . 15 up
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 わが旅とデカダン派芸術家たちとの違いは何か? デカダン派にはこの融合(слияние)がないのではないか? 地下室か? わからない……(打ちひしがれながらも、わたしは、自分が確固として存在し、その個性は砕かれも消されもしないことを証明しようとしているのです〔この一文は構想中の小説に組み込むつもりだった書簡の一部か?〕)。デカダン派はおそらく文学研究家にちがいないが、わたしは文学研究家などではない……彼らの〈わたし〉は張子の神だ

メレシコーフスキイとギッピウスの奥ヴォルガへの旅についてのプリーシヴィンのコメントが思い出される。(三)の*1を、また『巡礼ロシア』第二部キーテジ――湖底の鐘の音(平凡社刊)を参照されたし。

 メレシコーフスキイにあっては、この〈紙でできた〉存在が〈文化的な〉存在に変えられて、文化そのものが本に化ける。その本のヒーローはキリストである。要するにこうだ――おのれの情熱では愛が得られないので本を書きだし、書き続け、書きながら年老いていけば、自分の燃えるような愛の本を自分の恋人に捧げることができる。メレシコーフスキイがやっているのはそういうことだ。彼はそんなふうにわれわれに自分の張子のキリストを供しようとしている。
 彼のところへやってくるのはフルィストたち――キリストの人たち。歴史上の人格(また個性)への信仰を失い、おのれの内なるキリストの人格を主張しだしたキリストの人たち、である。メレシコーフスキイが彼らに語るのは、唯一のキリストについてであり、両者の違いは〈文化〉だ。考えるところは同じだが、一方には文化がない。張子のキリストはメレシコーフスキイの文化を救っているし、文学者としての彼をも救っている。(なにせ〈お調子者〉だから!)

 ソファーに寝転がっているのは、「ある男」などという代物ではない、平凡な、つまらん人間だ。そいつが、ソファーに寝転がってタバコをふかし、下らぬものを読み、大いに退屈している。「べつにかまやしない」が、軽蔑の対象であることは確かである。そいつがごろっと寝返えり、ときどき体をぴくりとさせて、どこだろう(ウラルかな、それともイタリアか?)――『ああ快適快適!』などと呟いたかと思うと、いきなり〈何か〉にしがみついて、〈紙のソファー〉か本格的なやつに乗っかったのか、てんで〔わかりゃしないけれど〕、ともかくその国へ出かけてしまったのだ。なんという歓びであろう! 充実、信頼、ソファーへの完全没我の果てである。現われたのは青(голубое)、その青には、ヒーローたちと意味と変容した大地が……青とソファーとのあいだにはいかなる継承性も存在しない。にもかかわらず、ソファーへは戻って来れるのである――そこには青のためのいかなる根拠もないのだが。

голубое(ガルボーエ)をずっと「青」と訳しているが、正確には淡青、水色に近い色。プリーシヴィンのポエチカでは、色彩(また光)のメタフィジカが本質的な役割を担っている。〈青〉は夢想の色(たとえば、「青いビーバー」(八)、「蜜のとれる青い草ファツェーリヤ」(七)、「青い許婚」(二十一)など)、ユートピアの色だ――ナロードニキ「もし青が消えたら彼らはきっと死ぬ(ドゥーニチカ)」。論争の要点は、世界の二律背反のイデアの克服(高きものと低きもの、青と現実)、それといっぷう変わった〈プリーシヴィン式の〉統合への欲求である。悪をことばで制し世界を変革しようとする(ナロードニキ〔ドゥーニチカ〕やシンボリストたちの)ユートピア的な情熱ではなく、悪の実在を認めつつそれを再演する創造的な試みとそのユニークな対決(先走るが、「いやいや、ただサモワールで湯を沸かして、お茶を飲みながら語り合う、それでいいのだ……」)の広がりとしての宴。期待される結果は、悪の根絶(プリーシヴィン的に言えば、それはユートピア過ぎる)ではなく、喜びとそのいっさいを包み込む勝利の喜びへの信頼である。短編『水色のトンボ』の「青」、『ひかりの春』の「夜空の明るい青がゆっくりと濃い青に変わって……」など。

 わたしは自分が、まったくその点では、碌でなしどもに学ばなくてはならぬ人間であることを十分に承知している。碌でなしの強みは、自分を現実のもの必要あるものと認め、それを行動原理としているからであり、したがって奴らはまったく根絶されない(この不壊不滅の承認の上に碌でなしの最後の踏んばりとしての死刑がある)。ところが善人はなぜか、自分の善なることを疑い、疑うだけでなく、まず間違いなくそういうリアリスト=碌でなしどもを恐れている。

 それでいったいソファーはどうなったのか? この物体を死体と認めるなら、そもそも青はどこから現われ、その操縦不能の気球は何を意味するのか? それは青空――存在しないが、それでもやっぱり存在する青い空なのだ。
 ソファーと青、これら二つのあいだに何か関係はあるのだろうか?
 憂愁(トスカ)――それが最終的なつながりだ。トスカがわかればすべてがわかる。しかし、トスカも恐怖もなくて、完全ゼロ(無)ということもよくあるのだ。顎髭、頬、力学……思い浮かぶのは、劇場の予約チケットを手にしながら、同時に複雑な国家的活動に邁進できる人間の、非常に完成度の高いメカニックな装置(アパラット)である。好き勝手なことをする奴だが、それでもそいつはメカニズム(行動するオブローモフ)なのだ。

官吏で作家のイワン・ゴンチャローフ(1812-91)の傑作『オブローモフ』の主人公。貴族社会に絶望しながらも、新しい生活を切り開くことができない無気力な青年。自分が地主であることに罪悪感を抱き、農奴制を否定しながらも、ほぼ一日をソファーの上で過ごす。ロシア・インテリの〈余計者〉の典型=オブローモフシチナ。

 メカニックな人間と青のあいだには、どんな関係があるのか? つながりが見えず、驚いている。しかし、つながりがないとなれば、青をメカニックなもののようにしっかりと確立(認定)する必要があるし、大きな、しかも偽り(架空のもの)でさえあるフルィストにおけるようなつながりは破壊する必要がある。青のリアリストの法則もあれば、それとは別の、ソファーのリアリストの法則もある(複式簿記あるいは表裏あるやり口)。

 最後のところを譲らず、そこに(藁をも掴むみたいに)しがみついて、それでもすべてよし(всё хорошо)と言う人たちがいる。そういう人たちには、青を失うのではという不安や恐怖が、青なしでは生きていけないような信仰が、ある。もし青が消えたら、彼らはきっと死ぬ(ドゥーニチカ〔従姉のナロードニキ〕)。それで彼らはキリストに祈るみたいに、絶えず『光へ、光へ、光へ!』を繰り返している。なかにはえらく強情を張って、棺の中でも『光へ、光へ!』をやってる奴もいる。ところがそんなのは単なる片意地にすぎなくて、じつは奴らには夜を止めるほどの力がないのだ。
 青の本質に深く根を下ろすことが不可欠である。なんとか意識的に〈ソファーなるもの〉の領域に這入り込んで、そいつと話を交わし相談する。でそいつに完全な生存権を与えて、そいつのために死刑を廃止することだ。それも偽善的にではなく(青の柔和さ)、汚れなき良心から、いやいや、ただサモワールで湯を沸かして、お茶を飲みながら語り合う、それだけでいいのだ……まあでも、そんなことして『光へ、光へ!』ばかり唱えている連中のためになるのかどうか、ちょっと怪しいものだ。どうせ夜がやって来れば、いくら電気を点けて回っても青空は手に入らない。いよいよ空は赤茶けてくる。青なんてとてもじゃない。一晩中『光へ!』を唱えてれば、もちろん光はやってくるだろう。でもそんなこと、黙ってたって起こること。個人の手柄とは感じられない。二度と夜がめぐって来ないに越したことはないのだ……ああ、そうじゃないぞ。まず日の出前にサモワールに火を入れ、テーブルクロスを掛け、四隅に向かって『どうぞいらしてください!』と繰り返す。すれば、角の生えた亭主〔不貞の女房を持った夫〕も、太鼓腹のおっさんも姿を現わすはずだ。いちいち毛嫌いしてはいけない。そんなのは初めだけだから、夜明けごろは不快でも、そのうち慣れてしまう……厭な臭いがしてくるかもしれん。彼らと機知に富んだ会話を始めること。そして夜明けまで歌をうたい、ものを食べて、お互い愉快な気分になることだね。どっちみち会話が始まったら、光の守護者の誰も味わったことのないような歓喜がみなを呑み込むにちがいないのである

ここで、ふと思い出すのは、この年の初め(1月6日)の日記の、唐突に哲学者のカントや禿頭が飛び出す、ほとんど脈絡のないノーヴゴロドの妙なお呪(まじな)いである。プリーシヴィンは早寝早起きの総元締めのような人で、いつも独り夜明け前には起きていて――春が近づくころには起床は朝の一時とか二時だった――まずたいていは茶器と匙を洗い、丹念にサモワールの煤を払って湯を沸かし、熱い茶を啜りながら、前日の〈経験〉の結果であるメモの整理と清書に精を出す。完全朝型人間の内なる空はいよいよ青く冴えわたる。

 精進であれ、祈りであれ、懺悔であれ、試練であれ、それらはみな手段であり方法であって、すべての基礎――それは、心臓の最初の神秘に満ちた運動、夜の一番鶏(いちばんどり)の鳴き声だ。

 夜の町。電灯がしつこく叫んでいる――『光へ、光へ、光へ!』と。空は赤みがかってきて、その赤らみの上に、ぽつんと小さな星ひとつ。そうして電灯の明かりとともに、心臓の最初の不思議な運動が始まる。それが何を意味するかは神のみぞ知るだが、ふいにどこかで鳥が鳴く。たしかに愚かしげな声ではあるが、その愚かさ加減(グルーポスチ)は強さ(クレーポスチ)。そうしてまたもや静寂につつまれる。でも、わたしの耳には聞こえてくる、聞こえてくるのだ――どこかはるかに奥深いところから、人間の暮らしの時計のチクタクが。一日の最初の重たい車輪のガラガラと、一斉にあちこちで鳴りだす工場の始業のホイッスルが……  

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