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プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 02 . 17 up
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1919年1月11日(の続き)

 「駄目な奴ばっかしじゃねえさ。善人だっているだろう」
 「善人は悲しみからも病気からも逃れられねえ。それに今じゃ善人はみな磔(はりつけ)だ!」
 「あのアヴドーチヤ・スチェパーノヴナから200ルーブリ毟り取るらしいや。そんな金がどこにあるって? とんでもねえよ!」
 「飼ってる牛を売りゃあいい」
 「牛と別れろってかよ? じゃあ春になったら、誰が畑を耕すんだ?」
 「コムーナの連中を集めて耕させりゃ、なんとかなる」
 「なんとかなるか? おめえはどうせ何もしねえだろうが、おれは働く。春になって牛がいねんじゃ、どうもならんよ」
 「坊主はどうだい? ちっとは課せられたんかい?」
 「やられねえわけねえさ。若い坊主は2万ルーブリだ」
 「2万か、そりゃいいや。ちいと無理だがな」
 「年取った坊主には1万ルーブリだ」
 「死人にもな。割当があってから死んだわけだから」
 「なんでそんなことする? 死んじまった人間に?」
 「若い奴らが言ったんだ――死人にも割り当てろ、って」
 「おいおい、とうとう死人まで引っ張り込んだか! 良心てものがねえんだ……そんでエウドキーモフはどうなったい?」
 「どうだったっけ……ええと、あいつは……」
 とまあこんな調子で、話の種が尽きることはない。

 義務を果す生活とは、恨みつらみが縁からこぼれるほどの大波は立たないがまだ相手に対して善を為さんとする気持にはなっていない、つまり理性によって抑制が効いている中程度の心の状態を言う。

1月12日

 〈義務(つとめ)により生きる〉とは、不治の遺伝病(たとえば肺病)を克服したあとの生活(肉体的状態)に相応しい精神的状態のこと。その場合、最も避けなければならないのは〈やり過ぎ〉。酒席で隣にいる健康な人間にボリショイ・オリョール〔の大盃〕を無理やり注(つ)ぐのは、もう一人の隣の席にいる癒し難い傷を抱えた人間に注がないようにするためである。

この当時は遺伝するものと思われていた。

 さらに一段と冷静で慎重な心の状態をも義務と称することがある。こちらは荷馬車でゴトゴト行くので疾走するトロイカには飛び乗ることができない(『それにしても、おまえはなぜそんなに急いでトロイカの後を追いかけるようとするのか……』)。飛び乗るチャンスを逸してしまうが、そんなことをする必要はどこにもない。やめていいのだとする心の状態。

詩人のニコライ・ネクラーソフの詩『トロイカ』(1846)からの引用。

 病者の義務の第1のカテゴリーに入るのは、自分の病を隠して、元気溌溂とした生活に感謝している人びと。第2のカテゴリーは、あらゆる生きものを憎悪するペダントたち。第1のカテゴリーの人びとは決して義務の話をしない。なぜならそれが彼らの沈黙だんまりだんまりの状態なので。第2のカテゴリーは義務の話を果てしなく繰り返す。
 ソフィヤ・パーヴロヴナ〔ソーニャ〕は妙なほどどっちつかずの態度を取る。わたしに対しては第1のカテゴリーに属し、夫に対しては第2のそれに属する。だがそれはわたしには理解できる。第1の状態は生まれつき(本質的なもの)であり、第2の状態は後天的(非本質的なもの)で、それはエフロシーニヤ・パーヴロヴナ〔妻〕に対してわたしが抱いているもの――家事、無駄遣いその他の鶏(とあらゆる女性)に特有の美点というか強みへの神経過敏(イライラ)――なんとかしてくれといつも思うものと同じものだし、キリスト教的高みに達しながらもモーゼの十戒などまるでお呼びでない人びとと付き合うことになった心の状態と大同だからである。

 メーテルリンクの曰く――『真夜中の太陽が波立つ海――そこでは人間の心理〔学〕が神のそれに近づきつつある――を支配している』、『アイスランドに薔薇を探しに行くな』。なんと彼は正しいことか! 

ここと以後の引用はメーテルリンクの論文『従順な人びとの財宝』(1896)〔翻訳(1903)〕。

 メーテルリンクの『沈黙』を読みながら、ふと思った――そもそもわれらが饒舌にして大袈裟好きのこの時代は沈黙あるがゆえのものではないのだろうか。このコムーナの時代にロシア人たちが口を閉ざしていたもの〔外圧のために沈黙したのではない〕、それを口にすることができないから沈黙していたのだ。もしかしたら言論への検閲による圧力がわが野を埋め尽くした雪の役割を果しているのかも(しかし真実は誰にもわからない)。雪は植物の茎も花も滅ぼしにかかっているが、沈黙する地下の根たちを保持してもいるのだ。

 ゴキブリたちの礼儀正しさ。恐ろしい沈黙と空しいかぎりの言葉の時代ではあるが、しかし壁の向こうからは日がな一日、百姓たちのコムーナへの「ブルジュイじみた」お喋りが聞こえてくる。と同時にその同じブルジュイたちの沈黙から――『われわれは為すべきことをした、それ相応のことしたのだ、報われて当然なのに』という声も聞こえてくる。新しい君主〔統治者〕たちの事業の本質について、明確な言葉がひとつも発せられないではないか、そうした素朴な(一語判読不能)……も口にできない……そのわけとは――もしたとえば自分が、マクシム・コヴァレーフスキイ*1みたいに日がな一日、図書館でハーグ平和会議*2のための原稿を準備していて、ついにそれ〔自分の反戦平和の言葉〕を完成、さあ今から発表するぞと立ち上がったその一瞬を捉えたかのように、突然、何者かがハーグ市に向けて窒息性ガスを放射した〔としよう〕。するとどうなるか。いやいや、もうそうなったら戦争反対なんて吹き飛んでしまって、たちまち権力筋がすっ飛んでくるのである。ナロードが(老いも若きも一緒になって)ツァーリの権力を打倒したときも、たしかに風穴ぐらいはあいたのだが、でも臭い毒ガスのようにナロードのЖ〔жопа尻の穴〕から出てきたのはやっぱりその同じ権力だった。そしてそれがナロードを窒息させたのである。

*1マクシム・マクシーモヴィチ・コヴァレーフスキイ(1851-1916)はロシアの歴史家・社会学者。

*2ハーグ平和会議は1899年と1907年にロシア皇帝ニコライ二世の提唱でオランダのハーグで開かれた国際会議。国際法の発展に一時期を画した。第1回会議は国際裁判制度充実などを国際紛争平和処理条約と陸戦法規に関する条約を採択。第2回会議では戦争法規を中心とした13の条約を採択。これらの条約を総称してハーグ条約ともいう。

 革命前の文学はさながら薙ぎ倒された草のよう。草地には何もない。目下の関心は、根について十全の理解を得たいということと、まだその草地に多年生の植物の根が残っているかということ――それだけだ。
 権力は悪臭紛々たる毒ガスで、今それを手にしているのがボリシェヴィキ。

 それゆえ何ら抵抗することなく、〈ブルジュイ〉がコミサリアートに最後の乳牛を連れていく。そしてこう言われる――『家に戻って〔搾乳用の〕桶を持ってこい!』。それで百姓は急いで桶を取りに戻る。だからこそコミサールの下ではすべてが共有であり、ブルジュイのものは個人所有のものなのである。コミサールの権力はいくら悪臭を放とうと、権力は権力だ。それで無政府状態のまま乳牛を所有したのである。
 ヨナキツグミ〔ナイチンゲール〕の小さな舌の焼肉。「怠業者(サボタージニク)」のインテリゲントは、衆人環視の中で、ヨナキツグミの舌に変身しなくてはならないので、どうしたって雄鶏みたいに喧嘩腰にならざるを得ない。それだけでなくそれはナロードのためにもなるのだ(民衆教化のわれわれの功績!)。インテリゲントであるかぎり彼は必ずその焼肉を〔食べるが〕、もしその信念からインテリゲンツィヤと袂を分かってボリシェヴィキになったとするれば、間違いなく彼は大学生のラスコーリニコフのように論理的犯罪の道を歩むにちがいない。その自尊心と権力欲とはまさにナロードに近づこうして彼自身が渡った橋なのだ(したがって『悪いのはすべてアンテリゲンツィヤ〔彼はインテリゲンツイヤとは発音しない〕と言ったイワン・アファナーシエヴィチの言葉は完全に正しい。なぜならどんなに焼肉的であれ犯罪的であれ、その橋を渡ってしまえば、それは、結果として毒ガスのボンベに穴があいたということだから。

ラスコーリニコフはドストエーフスキイの長編『罪と罰』の主人公。

 秩序と自由(フレンチとチューブ)。ヴァリャーグ人たちからフレンチをカザークたちからチューブを奪った権力者を見よ。なんと嫌な影響をこのイギリス人のフレンチとカザークのチューブのごたまぜはもたらしたことか。そんな権力の代表者がコミサール。コミサールとはすなわち、ポケットの多さと前髪垂らした豪胆ロシアがヴァリャーグ式の秩序観念と衝突した賜物なのである。

フレンチは4個のアウトポケットが付いた詰襟軍服(英国人ジョン・フレンチ元帥の名から)。チューブは男の前髪のこと。昔のウクライナ人の長い前髪。

 そして新しいものは何もない。本質的には新しい形式(フォルム)がかなり明確であるというだけ。ロシア革命そのものの価値はナンセンス〔不合理〕にまで行き着く証拠としてのみ存在する。
 スキタイの大雪に埋もれた野の沈黙、そこにこそ春に花をもたらす地下の根の神秘力は隠されている。

 雪の下から顔を出す花。レーニンは案山子〔馬鹿、阿呆〕だ。いま必要にして唯一の課題は何か? 顔のない者〔ベズリーコエ、無個性〕の中から個なるもの(リーチノエ)がいかにして現われるか、群衆の中からいかにして指導者が姿を現わすか、雪の下の根からいかにして花が現われるか、それをどう捉えるか――唯一の課題とはそのことだ。

 沈黙の十字架。沈黙は地下の花を産み出す力に共通の兆候であり特徴であり、もし今わたしがそのロシアの大地の沈黙の力を十字架と呼ぶなら、それはたしかに有効的な言葉になるだろう。なぜならそれはあまり先走りしすぎた言葉だから。
 「先走る」とは沈黙、たぶん十字架の沈黙のうちに義なる勢力による反抗暴動があまり感じられないのでそう言うので、反対に、あらゆる原則が――『だからおれたち卑怯者はそうなるべきだ』という諺めいた警句が飛び出すことになるのである。

 極端すぎる税金をどこの村でもコントリブーツィヤ〔償金〕と称している。

 ボリシェヴィキがこう罵られているのを聞いた――『アンチキリストの魂が齧り尽されますように!』
 自分も反革命家と言われているらしい。コミュニストに敵対する者たちが自分のことを敵意をこめてそう言っているようだ。それは、自分が彼らの仲間でなく、こうしたごたごたを引き起こしているインテリゲントであるからだ。
 ミコールカは生きている! 
 石鹸と交換にピローグを持ってきたオレーフィエヴナが、3000ルーブリも償金を課せられたと悪態をつく――
 「ああ、あたしゃ、うちの一番下の息子を兵隊に持ってかれたとき、あのミコールカの奴をさんざん罵ったんだよ。まさかミコールカの分も払えと言うんじゃないんだろうね?」 
 「死んだ人間の分をかい?」
 「なんでまた、そんな? ミコールカはまだ生きとるんだよ!」

 百姓の見地――「迂回」。イワン・アファナーシエヴィチは言う――
 「そりゃ学のある人間は自分の見地〔観点・意見〕というものを持ってるさ。もしそこに自分でないものが混じれば、そこで自分なりに何らかの結論を下せるわけだが、百姓の見地(もっともそんなのがあればの話だが)、まあ百姓にかぎってそんなものはない。そこでわしの意見はこうだ――そいつを払いのけずに避けて通る〔迂回する〕べきだとね。そうしたほうがいいってことだな」
 そう言ってイワン・アファナーシエヴィチは一つの例を挙げた――それはパンに対するインテリと百姓の態度の大きな違い――パン屑をゴミみたいに床や地面に落とすことを百姓は罪と見なすが、インテリはそうではない、と。
 主婦のタチヤーナ・パーヴロヴナは償金を前にして、死刑宣告をされた人間が最後の一日に味わうような経験をしている。そして同じ目に遭った者たちの半数もこんなことを言っていたと――
 「わしらの国くらい駄目な国はなかった。土地を持たん貧乏人からパンを略(と)っていった国なんだ」
 「ロシアとはそもそもナンであるか? それはみんなのためにあるべきもの。なのにそこではみんなが着ているものを脱がされ履いているものを脱がされている! 日の出と日没が同時に見られるロシア――そんな広大無辺の空間を人間たちが裸で跣でほっつき歩いているのだ!」

1月13日

 と、ここに挙がるメーテルリンクの歓喜の声。これまで読んだことがなかったのだが、今度はじめて読んでじつに身近なものを感じた――なんだかメーテルリンクが自分の友人か先生のように思えたのである。

 わがロシアのインテリゲンツィヤ――ただしロシアのセクトとしてのそれは、もう永遠に亡んでしまった。ナロードの中に今、それはあり得ない。なぜならそこにいるのは自分たちの(身内や仲間である)名の知れた人びと、もしくは権力の代表者(それもやはり仲間)のどちらかだから……
 人びとの声に耳を傾ける必要がある――何より彼らの気持が和らぐであろうから。彼らの話を聞き終えたら、教師然たる態度でなくそっと助言をするのが望ましい。そうしたやり方に歓びの本源がある。大事なのは、周知のはずでももう忘れられてしまっているようなことをそっと気付かせること、秘かに助言すること――要はプロンプターに徹すること。
 われらが坊さんたちにはこの歓びの感情がある〔あった〕。彼らの道は断たれてしまったが、運動のせいで〔革命運動か心の動揺か?〕この感情がそもそも何から生じたのかが思い出せないで、それを安息(パコイ)と混同している始末である。

1月18日

 こんなふうに……旧の新年を迎えた。ああミハイル、ミハイル! このあたしをどう迎えてくれるの? 誰がいつこんなふうに迎えたかしら? ただよくないのは、わが友〔ソーニャ〕が、なぜかわたしの部屋に、いつかわたしが贈った〔鹿の〕角を飾ったこと。彼女はしかし、誰にも知られずに、自分の中に手つかずの〔無垢の〕女人を保管していて、(わが農民が灰を通りに投げ捨てるように)国家が投げ捨てられ、世界が震撼し、社会がひっくり返されたとき、彼女は悠揚せまらず自分の長持を開けたのである。そしてわれわれ〔自分と彼女〕は、焼けた祖国の灰の上で酒宴を張った。われわれの新年は迎春はたしかにそんなふうだった。

 村の古老もこんな凄まじい霜を思い出せない。まる一週間それは積もったまま融けなかった。だからあちこちの槲の樹幹や枝が折れた。白樺の林に(一語判読不能)があったが、そのあと(驚いて腰でも抜かしたか)一本の白樺がその凍りついた梢〔頭〕をどんどん下げて、なにやらこんなことを囁いた――『おいマロースよ、なんだってこんな冗談を言うんだ。もういいからやめてくれ!』。だが凍てと寒さはいよいよつのり、ますます枝々をうなだれさせると、こう答えた――『で、どうだね、気分は?』。みっともないほどひん曲げられた枝々にはもう返す言葉もない……

 あっちこっち電線が大きく撓んでしまった。すっかり雪の上に落ちてしまったところ、断絶したところ、完全に倒壊した電柱もあるが、わがスキタイ人はそんな電線をクレンデリ〔8の字白パン〕みたいに巻いて、さっさと自分の家に持っていってしまうのだった。そのためわが郡の配線網はゼロ、電信柱だけが残った。それとてまともな形のものは一本もない。新聞にこんな記事が載った――「電線の窃盗犯には恐ろしい処罰が待っている(「十年の禁固ののち銃殺」)、覚悟せよ!」

 演説家たちは、市民に向かって、コムーナによる国家建設を呼びかけたが、スキタイ人たちは霜と嵐でずたずたにされた電線をぐるぐる巻きにして自宅に運び込んでいるし、相変わらず路上には家で出た灰(貴重な大地の肥料!)を投げ捨てていた……

 レーニンは政治的見解を棚上げして、すべての人に勤労を呼びかける(『もうコミュニストだけが働けるという偏見は捨てるべきである!』)が、地元のコミュニストたちの締め付けはいよいよ強まっている。

 友〔ソーニャ〕のために肥料を10袋(40ルーブリ)買った。袋の上にのっかってセンナーヤ広場をあとにする。誰彼なしに訊いてくる――
 「何を運んでんだい?」
 こちらは愉快そうに叫ぶ。
 「パシェニーツァだ!」
 「Vita!」
 第七天国〔有頂天〕なり。

プシェニーツァ(小麦粉)?

 毎日の悲劇(メーテルリンクから)。『はるかにリアルで深くて大事件の悲劇よりさらにわれらが真の存在に近しく関わるところの毎日の悲劇というものが存在する……』、『その正体を暴くためには、そのうちなる無限の中の魂(のごときもの、決して活動しないあるもの)の存在を明らかにする〔明示する〕必要がある……』、『この生の悲劇(ありふれた、しかも深くかつ普遍的な悲劇)は、予期せぬ出来事、不幸〔運〕や危険と呼ばれるものが過ぎ去ったとたんに始まる、などとそう軽々に断ずべきものか? はたして幸福の腕は悲しみのそれより長くないのだろうか? 本当に幸福がもっと身近により親密に人間の心を捉えることはないのだろうか?
 理想――運動、動くこと。悲しみと幸福は同時に道を開いたり閉じたりできる。

 飢餓の時代に一杯のヴォトカが飲めシベリアのペリメニが食べられる――それがどんなに幸福に思えたことか? 新年に幸福を摑んだ――飲んだし喰ったし、あれは何? みなが最初に感じたこと、それは不一致。期待にそぐわぬ、現実味のない歓びだった。そしてそのあとお腹が痛くなった。このあとメーテルリンクと話をした――幸福の腕と悲しみのそれはどっちが長い? 問題は人びとが何を手に入れようとしているか――ガチョウの焼肉かペリメニか、どちらか一つ。たとえばもし好きな花の香りを嗅ぐために春を待つなら、この幸福は喜劇(コメディー)に属し、ついにそれを嗅ぐときには、満足も満腹もなく、反対に花の香りに一瞬の幻の、あるいは分かりにくさからくる新たな興奮〔波〕に捉えられてしまう。ちぎれた花を手にその人は歩いていくが、また花の咲いているところに戻ってくる。そして気持をひとつに集中し、またもや花に身を屈めるのは、不思議な光芒を放って一瞬のうちに消えたものの謎を本気で解き明かすためだが、それはすでに無い! ちぎれた花びらの残り香は純然たる草の匂いである。新たな春、新たな期待、そして再びまた。期待は一瞬のうちに消えてなくなる。歓びと悲しみ。そこにあるのは天上の歓びに似たものだが、ガチョウの焼肉にはおのれの地上の歓びが、でもそれすら一瞬のこと……
 幸せと幸せが、悲しみと悲しみが――そこに生ずる混乱取り違え。われわれはしばしば悲しみであるものを幸福と呼び、反対に悲しみを幸福と呼んだりする。実現し難さ(これは運動の謂いではないか?)は、悲しみにも歓びにも同等のものだが、ただ悲しみにあるのは第1種(肉体的というような)の実現し難さで、第2のそれは歓び(精神的な)にある。悲しみは運動に対する阻害(実現し難さ、かなわぬもの)から生じる。悲哀とは停止された運動……

 プローホルカが自分の兄弟であるミトローシカに言った――『なんでおまえ、あいつ〔もう一人の兄弟〕から1000ルーブリしか取らねえんだ? 7000ルーブリは取れるってのに!』。こんなことがもう起こっている――兄弟同士が戦うようなことが。いよいよもって世紀末。

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