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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 12 . 09 up
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9月18日

 近ごろはコミュニストがクマニョークと呼ばれている。

 20歳で、彼女は恋をした。25歳のとき、この人は頭がいいし優しいしそれに理想を抱いているとそう読んで、結婚した。概して素敵な〈カップル〉だった。9年間幸せに暮らした。あるとき、以前付き合った男とよく似た紳士と通りで出会う。彼女はどぎまぎし、動転し、失神しそうになった。夫の幸せな日常はヴェスヴィオの麓の庭で(その庭は2度の噴火の間に造られた)で過ぎようとしていた。夫には一生を通じて夢のような理想(イデアリズム)がたくさんあったが、妻には〈女らしさ〉を除けば何もなかった。しかし今や、妻には男を見る目がそなわった。イデアリストとは家庭生活を営むべし、情熱の男とは暴圧者の謂いであると悟る。子どもは2人と決めると、お祭り気分で、「みんなみたいに」自分も恋の戯れをとも思ったが、とてもじゃない。「みんなみたいに」は無理だった。結局、彼女が出会ったのは、イデアリストでも情熱の男である暴圧者でもない、言うならば男の第三種――〈情熱の夢想家〉というやつだった。その男は静かな客として、すんなりと円満に汚れなく平和的に、未来を約束しつつ彼女の家に入ってきた。そしてそこでヴェスヴィオ山が煙を吐き始めたのである――何か起こるのか?

イオアン・ズラトウースト(4世紀のコンスタンチノープルの大司教。能弁家で黄金の口(ズラトウースト)と称された)の請願の祈禱文(エクテニヤー)からの不正確な引用(?)。

 本物の(完全な)生の感覚をもたらすのは、その本質が闘争であるところの情熱〔情欲〕であり、したがって闘争はすべて自己との戦いに帰する。〈幸福者〉は、休息し新たな戦いに備えるために結婚を利用する。だがそれは、手段としてではなく、まったく違う生存(ブィチエー)のプランとして意識されている。情熱か愛か、戦争か平和か。
 山羊の脚。ファウヌス〔林野牧畜の神〕はニンフ=ベストゥージェフ女学院の娘たちのあとをやっとこさついていくだけである。おお、どんなに彼女は追いついてきてくれることを願ったことか! しかし彼女は逃げなくてはならない。後ろを振り返った……なんと、はるか遠くの谷間で、山羊脚の彼女のファウヌスめは、おお、なんと洗濯女といちゃついているではないか! あたしはベストウージェフの医学士(マギーストル)なのに。 

 ソーニャはわたしとエフロシーニヤ・パーヴロヴナの関係があまりわかっていない。あなたたちは変な取り合わせね、少しも似つかわしくない。だが問題は、自分が本当の愛のトスカーを彼女のように計算ずくの幸福な結婚と取り替えることができなかったことだ。エフロシーニヤ・パーヴロヴナと一緒になったのには〈幸福に対する〉嘲りのようなものもあった。ソーニャはもともと非常に臆病な人間なので、自分は心配している――情熱の最後の一線の先を無人の原っぱに変えてしまうのでは、と。その一線を越えさえすれば新しい生活が始まるのに、ただの誰もいない原っぱでは……

 そうだ、自分も今ではかなり臆病になっているのだ。彼女は自分の家庭の幸せを破壊することを恐れている。いっぽう自分は、年を取り過ぎて、慣れ親しんで慢性化した自由との訣別を恐れている……
 とは言え、こうしたわれわれの臆病ぶりが発揮されるのは、息切れしたり逡巡したりするときだけで、そうでないときはの二人の厚かましさは結構な高みに陣取っている……

 三人一緒に居合わすシーンを自分は想像できない。居合わせようものなら、われわれの感覚は不可避的に粉砕され陳腐になるだろう――そう思わざるを得ない。彼女が僕のところに来る(それと引き換えに)とき恐れていたようなことは何も起こらず……アレクサンドル・ミハーイロヴィチはエフロシ-ニヤ・パーヴロヴナみたいな烈しい気性の人間ではないので、さほど強く出ることはなく、むしろ感傷的になるだろう。自分はこの甘ったるいジャムの避け難さを感じている……もちろんこれは、彼女の〈幸福〉に対する熱意なのである。

 百姓たちはコミュニストをクマニョークと呼んでいる。以前は「同志!」だったが、今は「クマニョーク、なんか儲け口はないもんかね……」

〔モスクワ〕

 〈日付なし〉。彼女は未婚の娘のように種を播いている。2人の子を持つ夫は菜園の所有者らしい。彼は菜園の一角を耕し終えると、今度は妻の所有者然とした顔で、何やら考えている。
 ところで、彼女が16歳というのではぜんぜんなく、いっぱい子を産んだあとでも少しも変わらないという意味での〈乙女〉、なのだ。わたしは今でも、70歳で亡くなった母〔マリヤ・イワーノヴナ〕もやはり汚れを知らない永遠の乙女だったと深く確信している。
 愛はどんな女性のうちにも新しい手つかずの野を発見する。

 夕べの祈りの代わりに、これまで経験してきた(生活)ものに気を集中し〔……〕に心を向けるなら、それは祈りと同じことである。なぜなら、彼女はあのとき、自分にとって汚れない神聖そのものであったし、自分の思いはそれによって支えられて〔信仰の支えをを得て〕、しっかりと有効な現実的なものになろうとしていたのだから。

 彼女のことは何も心配していない。いちばん恐ろしいのは犠牲と否認(放棄)だが、でも、わたしは知っている――彼女がその犠牲をわたしのために甘美なものにしてくれるだろうことを、また彼女と共にあれば否認放棄の渦中にあっても自由を、大好きな森の狩場でも味わったことのない自由を見出すだろうことを。
 わたしの内にまだ微睡(まどろ)んでいる最良のものを、決して彼女は踏みつけにしない(なぜなら、それが何かをすべて理解しているから)とわかっているのはいいことだ。

 インテリで菜園主である夫はもちろん畑を耕すのだが、しかし彼が本物の女の魂の果てしなく広い手つかずのステップを独りで耕す――そんなことある得るだろうか? 哀れな菜園主は自分のために少しばかり耕して、すぐに垣をめぐらすにちがいない。なんといってもそこは自分の所有地なのだから。われは確保せりわが素晴らしき生活の休息所を――そう思い込んで幸せなのである。
 哀れな町人よ、せいぜい自分の草刈り場を手に入れて仕事を急ぐことだ。明日には本当の彼女の花婿がやって来て、柵など作る間もあらばこそ、彼女の未開墾地をことごとく耕してしまうだろうから。

 愛しき人よ、僕は大鎌と犂(すき)を手にそっちへ向かっている――草を刈って耕すために(きみを耕すために)。でも、わからない――どうなるか、ほんとにそれをやってしまうのか?
 懐かしい人よ、ひょっとしたら、自分は力なく大鎌も投げ捨てることになるかも。ただこれだけは誓う――きみのまわりに垣も柵もめぐらさないと。もし自分に力が足りなければ、僕はきみを求めて流離(さすら)おう、きみのすべてを、きみの持てるものすべてを愛の力で見つめ、眺め、見守ろう。それに感じて、きみは僕の心を今わのきわまで愛で充たしてくれるだろう。
 わがロシア、今は見る影もなく寸断され仕切られてしまったロシアは、いずれまつわりつく悪党ども(パチクヌイ)を払いはらいして、また再び僕を引き寄せるだろう。

 パスポート。登録する必要があったので、間違いのない書類を提示する。門番(ドゥヴォールニク)がまず不満そうな顔をした〔なぜドゥヴォールニクか?〕。
 「おたくは何歳か?」と門番。
 わたしは自分の年齢を言った。
 「宗旨は?」
 「なんであんたに自分の宗旨を言わなくちゃならんのかね? 教会と国家は別だよ。信教の自由じゃないか!」
 「しょうがねえ。自由か、信教の、う~ん自由か。でも、登録するには何かここを埋めなくちゃ」
 「みんなと同じさ、正教徒だよ」
 門番は大喜び。そうこなくっちゃ。彼が熱烈な正教信者であることはこれで明らかである。
 「肩書きは?」 
 「教えない。肩書きはないよ。わたしは市民(グラジダニーン)だ」
 門番は当惑する。そして考えに考えて、いきなりこんなことを言いだす――
 「市民は市民だ、確かに。同志よ、それはわしも認めよう。じゃ、どこの土地の市民かね?」
 「ロシアの市民だ」
 「何県の?」
 県名を言ったら、それが郡になり郷になり最後に村の名まで。村まで明らかになったので、それでおしまい。ロシアの市民というのは重要でないらしい。重要なのはどこで生まれたか、揺籃の地、臍の緒、わがイェルサレム。人間は生まれたところが自分のイェルサレム。
 所定の出生地の欄にわたしを縫い付けた〔書き込んだ〕ところで、彼はやっと布告の意味理解したらしい。
 「ちょっと待ってくれ」とわたし。「ほら、パスポートならここにある。必要なのはパスポートじゃないの?」
 まあ門番の喜びようといったらない! いやはや参った。初めからパスポートを出せと言えばいいんだ!
 まったくもう。なにが「市民諸君!」だよ。

パスポートは旅券、身分証明書。ソヴェートになってからは16歳以上の市民に交付されたが、移動を制限する(土地に縛りつけて置く)ために農民には長い間与えなかった。

 年取った軍の役人の家でコーヒーを飲みながら白パンをを食べていた。穀物の話になった。穀物さえ備蓄してれば、肉、砂糖、油、石鹸、何とでも交換できるから、生活費がかさばらずに済むんだがね……
 話し込んでいるところへ、水兵が二人、家宅捜索と称して勝手に踏み込んできた。一人が戸口に立ち、もう一人は帽子を被ったまま、挨拶もなしにわれわれのテーブルに就く。
 「あれはおたくのピアノか?」
 「そうだ」
 「徴収する」
 「仕方ないね!」
 「自転車もあんたの? 徴収する」
 「ま、仕方ない!」
 そのあと二人の水兵は酸っぱいチェリー酒の壜に手を伸ばす。一人が匂いを嗅いだ。もう一人は壜を口に突っ込む……
 水兵たちが出て行ったので、会話再開。穀類はほかのと比べてもだんぜん安いし、何とでも交換できるから、問題は備蓄だね……
 老人はちょっと考え込むと――
 「わしらの暮らしも、あの水兵たちみたいに権力の備蓄ができたら、どんなに楽になることか」

 ストーリンスキイとマリヤ・ミハーイロヴナ〔前出〕はその理想主義とジョレス〔フランスの社会主義者の指導者、前出〕への跪拝とでわたしを悩まし続けている。善き人びとの町人根性(メシチャン)な菜園もそれとよく似ている。どこにも善き人を避けて通る道はない。本当に堪らない。
 さらに、ロシアの民衆(ナロード)についてひねった考察をする才も名もある優秀な人びとさえ、今はわたしを冷ややかにする。わたしは内心、彼ら全員を、骨を齧る飢えたソロモンだと思っている。ゲルシェンゾーンは自分もソロモンの一人かもしれないと自分で自分に驚いて、きのうわたしに、自分は〈理想〉を恐れてはいないなどと宣言したものだ。わたしに向かって、いやきみこそソロモンなのでは(ただし、こちらは我がままに振舞っているだけだが)みたいなことを宣(のたま)った。ま、そうかもしれない。

 これもおとなしい羊の話。3万5千の将校〔将兵?〕が逮捕され、マネージには飢えた人びとが犬のように床にじかに坐ったり寝たりしている。3万5千名の軍人がわずかな数の中国人の監視下に置かれているのだ! 彼らの一人がわれわれにメモを送ってきた――自分の名は数千人のリストの中の前から3番目に載っている、と。

モスクワのクレムリンに近くにある広場。馬場で調練場とその建物。

 世界戦の次なるステージは全面崩壊(社会的な)の脅威の下で「和平へ急ぐこと」。

 どうもこんな気がする――優秀な、そうとう頭のいい学者たちがまるで狂犬かと思うような行動をとり始めている。あるとき、うちの犬が悪魔にでも取り憑かれたみたいに鶏の雛たちや七面鳥を圧し潰しにかかった。するとまともな犬たちが敵意をむき出しにしてその犬に飛びかかったのである。それを見ていた人間たちも犬たちと一緒になって(これも敵意をむき出しにして)その狂犬を攻撃しだした。そして殺してしまった。だが、それだけでは収まらず、今度はほかのまともな犬たちが次つぎと凶暴性を発揮した。人間たちが獣のようになるのに時間はかからなかった。すぐに狂ったようにその犬たちを打ち始めたのである。うちの村でも、銃で撃ち殺す者、棒で殴り殺す者が出てきた。唇をだらりと垂れて口から泡を吹いている犬を見れば、村人挙げて襲いかかるようになった。狂犬たちを殴り殺す人間自身が恐怖のために狂犬になった。そして自分はそのとき、奇妙なことに、犬たちの側に(味方になって)いた。そりゃ確かに今は……

 9年前に初めて彼女に会った。彼女は婚約者と壁暖炉の近くに立っていた。彼〔アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〕はわたしに、彼女とはバイロンの読書会で知り合ったと言った。わたしは可笑しかった。と言うのは、彼はこの2年間、А.А.С.にぞっこんだったのだから。А.А.С.とはブロークのことで別れたとわたしに語った。『ああいう学者女たちは――』と彼は言った。『ぜんぜん駄目だね。ブローク、ブロークと騒ぎ立てるが、なに、ブロークなんかさっぱりわかってない。僕はひと息つきたかったのだよ。もっと優しい女らしい女はいないかなと思っていたところに、ほらこの人が……』。ブロークが引き離し、バイロンが取り持ったということらしい。
 壁暖炉のそばで滑稽なほら話をした。話をしながらも、彼女の何か自分への敵意(悪意)のようなものを感じ取っていた。突然、彼女がわたしの方を振り向いて、ホホホと笑いだした――『あたし、あなたのような人を今まで一度も見たことないのよ……』
 その後、自分は何度も彼らのところへ行って、アレクサンドル・ミハーイロヴィチと親しく哲学談義をやったが、彼女にはぜんぜん関心がなかった。彼女はもしかしたら美しかったのかもしれないが、わたしはわがことにばかり感(かま)けている人のように思っていた。アレクサンドル・ミハーイロヴィチが彼女について話したことがあった。『彼女は自分のことは何も言わないが、しっかりした女性だよ、ほんとにしっかりしてるんだ!』。彼は落ち着くべきところに落ち着くと、天職探しはやめてしまった。そしてぶくぶく太りだした。自分は彼のことが好きだったようだが、それがなぜか忌々しかった……彼女はたえず妊娠しているという印象があった。あるとき、家を訪ねたら、彼は留守だった。彼女は縫い物をしていた。テーブルの上にはバラ色の生地の山。彼女の瞳は黒く、白目のところがブルーである。そばに腰を下ろして、わたしは何かお喋りをしたようだ。玄関のベルが鳴ったとき、なぜかばつが悪かった。
 わたしは彼女が好きでなかった。9年間、彼女もわたしをそう好きでなかったと思う。
 1916年の秋、彼女はエレーツのわたしとこへ客としてやって来たときは、まったくの別人になっていた。スタイルは好く、ひょうきんで、コケティッシュだった。恋でもしているのかなと思ったほどだった。あたしのところへいらっしゃいませんかと彼女が言った。翌日、行きたいと思ったが、アレクサンドル・ミハーイロヴィチとの関係で気分的に気まずさを覚えていたので、訪ねなかった。1918年の春、喪服姿の彼女に通りでばったり。さらに魅力を増していた……

7月8日 〔8月のメモではない〕

 彼女に逮捕され、目下拘留中の身だが、いや彼女だってとっ捕まってしまったようなものだ。よく効くチェリー酒と泥棒のようなキス。女性のことはまったく何も自分はわからないのに、いまだに自分を作家と思っている!

 地面の下のトゥルゥルーシカの歌は、あれはあれで自分の仕事をしているのだ。

土地の言葉で、コキジバトの鳴き声に似た音を出す蛙。

 彼女は明らかに気晴らしをしようと思っていたようだが……不安になって、こんなことを訊いてくる。
 「肉体による背信は背信と言われるのに、それが魂のことになるとどうして背信はと見なされないのかしら?」
 女として愛しているわけではないのに、手を撫でられて、なぜか心地よいと感じている自分。
 ドアがギーと鳴ったら、彼女はさっと手を引っ込めた。わたしは彼女が哀れになる。気まずかった――彼女は裏切ったのだ。

 「あなたも?」と訊いた。
 「そうよ、あたしもよ」と、彼女。
 今は彼女の顔が見える。話し方は自信なげである……
 一週間かけて彼女に自分の魂の庭と公園をすべて公開した。彼女は正気でなかった。陶酔、いや酔っ払った人のようにそこらを歩き回り、同じことばかり繰り返した――『あなたのものは何もかも輝いているのね!』。陶酔の朝のあと、わたしは彼女の足にキスをして、こう言った――『足にキスをしたのはきみが初めてだ』。そして、きみは僕以外の誰かにこういうことをされたことがあるかと訊いた。『一度あるわ』―『それでどうだった?』―『あのときはもっと輝いてたわ』―『輝いてたって?』―『そう、もっと輝いてた』。相手は誰だったか、それでどうなったかと問うと、彼女は洗いざらい喋った。相手は技師でお金持ちだった、と。『ワインは飲んだの?』―『ワインもキャンディーもいっぱいね』。わたしは彼女に見せてやった自分の魂の庭と公園を思い出すように仕向ける。するとまた叫ぶように――『あたしたち、ほんとに輝いていたわ!』。それで話題を慎重にさっきの足へのキスに戻し、本当にそのときのほうがよかったのかと、また訊いた。すると彼女は――『そうだわ、そう、もっと輝いてたわ』
 詩人とは色鮮やかに、だが技師とはさらに輝いて、というわけだ。

 別れぎわの彼女のキスがあまりに激しかったので、まるで自分はキスに完全包囲され最後に錠まで下ろされたような気がしたくらいだった。感きわまった彼女の声――『あたしのものよ、永遠にあたしのものになって!』

 今まさに黄金の愛の紡ぎ糸は本物の愛の錘(つむ)に巻き取られて、ぐるぐる回転している。抵抗したり一つになったりして、二人は完全に理性を失ってしまった。わがプリンセスたるグレージツァはと見れば、錘(つむ)に指を刺されたまま、すでに夢の中……

8月13日

 ふと我に返る。彼女はもういないのだ……こんなふうに徐々に自分のいつもの生活に戻っていくのだろう……ペスト流行時〔革命騒ぎ〕の宴を共にしたことで自分は彼女に感謝しているけれど、彼女だってわたしに感謝しなくてはならないのだ。なんにせよ、今どき自分みたいに全身全霊――すなわち心、頭、知恵、髪の毛一本一本、臓物まるごと没頭没入できる人間などいくらもいない。
 彼女はわたしを〈ヤーセニ〔トネリコ〕〉と呼び、わたしは彼女を〈リャビンカ〔ナナカマド〕〉と呼んだ。彼女は小窓に腰かけるのが好きだった。窓より高く……そうすれば彼女の足に……

 夢中と愛。最後に別れたのは彼女の家。言葉、議論、思想――われわれのどんな装いも今では枯葉みたいなもの、そのかわりもっと小さい(二語判読不能)でさえ赤い花をつけ、堂々と咲き誇ったし、彼女自身、星のように輝いていた。さまざまな稜面(グラニ)を――狡かったり悲しげだったり、活気に満ちたり、優しかったりと――見せたので、自分の心も沸き立った。わたしは彼女を恐れ、哀れみ、勝利者のように威張ったり、夫や彼女の過去に嫉妬したり、彼女は自分を完全に騙しているのではと、いや自分こそ彼女を瞞着しているのではなどと思ったりした。二人は彼女の寝室で激しくキスをし合った。キスの猛攻。喘ぎつつ彼女は叫ぶ――『あたしのものよ、永遠にあたしだけのものになって!』

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