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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 10 . 14 up
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8月17日

 エレーツ。鐘楼の上に半月。通りを行く人はみな打ちひしがれて、どこか怯えた様子。二人で日本のことを話していた――日本にでも行けたらねぇ、と。しかしこんなときにどこへ行けるというのだろう? 『やってくれ』と御者に言うと、『30分30ルーブリですぜ』――『じゃあ、いい!』

日本のことがたびたび話題になるのは、この年(1918)の4月初めに、日本軍陸戦隊がウラヂヴォストークに「上陸」し、8月2日には「シベリア出兵」を宣言したためである。

 別の馬車を探していると、突然、近くで銃声が。彼女〔ソフィヤ・パーヴロヴナ〕が怖がって――『誰か殺されたかもよ、でもあたしたち……』――『いや大丈夫。そこの門の石にでも腰を下ろしていたほうがいいようだ』。だが、そう言いながら、わたしは弾丸の快哉(かいさい)を思っている。当たるなら当たれ、ただし自分に……二人して石に腰を下ろす。すると、男がひとり、道路を横切ってこっちへ向かってくる。われわれ二人から目を離さず――まるでパーティの主催者とでもいったその顔。歩きぶりも独特なもので、よくわからないが、とにかく粛々と仕事をこなす一家の主という感じ。よろしいですか、木戸の上に煌々と照っているあの月も、あそこの星も、よろしいですか、そこらの暗い樹冠もすべてわしのものなんですよ、とでも言いそうなその表情。『なぁんだ、夜警か!』――二人が同時に同じ言葉を発したまさにそのとき、カーンと〔銃の引き金ではなく〕拍子木が打ち鳴らされたのである。男は夜警に間違いなかった。
 ああ、愛しい人よ、幸福を恐れてはいけない。なんでもないよ。そうびくびくしないで。死ぬことなんか少しも怖くない。

 こんなふうに、次第に第九の波〔嵐の海で最も危険な高波〕は近づいてくるのだ。波の先に見えてくるのは、はたして新天地の砂浜か、それとも断崖絶壁か?

 星とハートの弦の音。フルシチョーヴォ。わが古巣はどこまでも辱しめられ汚されてしまったが、でも風は少しも変わらず懐かしい木々をざわめかせ、トゥルゲーネフの小径の至るところにグレージツァは生きていた! ほら、だからこんなときでも(何がどうあろうと)、とにかく姿を見せてくれたのだ!

 ああ、愛しい人よ、今はただこの嬉しさをあなたのために書き留めておこう――手紙でも認めるように。これまでわたしは、自分の文学を紙の上の磔刑(不幸)か何かみたいに思っていたが、今はこう感じている――まだ何もわかってないな、と。だからすべてを包み隠さず書こうと思う。
 自分は心の奥を見せずに、そこへ逃げ込んでいた。辛いけれど同時に嬉しいのだ。痛みと喜びがごちゃ混ぜになって、何がどこにあるのかわからない。自分の幸福は《あなた》にある。悲哀と不幸はここにはない。では、どこに? わからない。ただあの愛すべき人たち(アレクサンドル・ミハーイロヴィチやエフロシーニヤ・パーヴロヴナや子どもたち)にだけはない〔と願うばかりだ〕。わたしにはすべてがこう思われる――この人生はぞっとするような悪夢であって、そうなったのは星とハートの弦を断ち切ったためなのだ、と。あなたにはわかるだろうか? 人間の星とハートとは遠くきにあって近きもの。暗夜の星々は、たっぷりと血を送り込まれた心臓のように大きくなったり小さくなったりしている。あなたはわかってたね? もう僕らの星もハートも破裂してしまった。見てのとおり、残ったのは蜘蛛の巣だ。銀の糸、細いとても細い糸が、ぷるぷると震えるように揺れている。いずれぼろぼろになってしまうだろう。

 第九の波とは?
 大波が去って、どこかの岸に取り残されるが、そこがどこだかわからない。誰にわかるだろう? 気がつけば、ただのそこらの水溜りの中かもしれないのだ。いっぽう大波はさらにうねって先を急ぐ。すると、またしても新しい泳者は夢を幻る――そうだ、そうなんだ、第九の波の先にあるのは、野鳥たちの国――あの「ヒト怖じしない鳥たちの国」にちがいない。それ以外に何が考えられるだろう!

セーヴェル(北ロシア)への民俗探訪の記録――『驚かざる鳥たちの国(邦題『森と水と日の照る夜』(1907)だが、ここで言わんとするのは、少年のころに友だちと脱出を企てた「黄金のアジア」、見果てぬ夢の国こと。

 さあ、どうする? 第九の波に身を委ねるか、それとも海面全部を氷結させるエネルギーをおのれの内に見出すか……
 (自分はそれとなく〈婚礼の家〔結婚生活?〕〉で味わった。ハートは燃え盛るのに身体は氷のよう、唇は熱くなるのに顔からさっと血の気が引いて)
 あれかこれか。だがこれは貧血気味のイデアリズム(謂うところの友情)などでは全然ない。

 

 夫(理解度を広げる) 
強姦者女のハート物静かな客人
旦那(パン)その他(海)アリョーシャ・カラマーゾフ
オネーギン―――白痴その他
社会活動家―――詩人
人びと―――星々
誘惑(デーモン)―――熱中〔愛着〕
殺人者―――
 結婚は不可能であること 

8月18日

 彼女の気持が自分の方に近づけば近づくほど、彼〔アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〕を愛せないことがさらにはっきりする。その衷心からの打明け話も自分にはとても信じられない。なぜかと言えば、彼の方は引き下がるつもりがなく、自分は引き下がれる(さがらねばならない?)、つまり互いに平等な関係ではないからである。とは言え、〈敵〉が抽象的なものであること――ちょうどロシア兵の頭に浮かぶ〈ゲルマン人〉(こっちが彼)のごとき存在であること――がわかってくる。生はあらゆるものを自分流に捏ね上げようとする……
 深夜、自分は考えた――С(エス)〔ソフィヤ〕は自分の何倍も苦しいはず。なぜなら、こちらは(この絶望の最中(さなか)にも)「チェコ軍団だ」、「アラブ人だ」と言っていられるのだから。とは言え、〈騎士道ふうの〉色事のつまらなさ(フランス語やら何やら)も、女の心には自分の「アラブ人」*1より大きいのかも。もう待てない。あすは出発する――これ以上、無理だ。「三人で暮らす*2」と思われている(そんな疑いをかけられては、とても〔「耐えられない」の字が抹消〕)。これじゃ〈墓穴に堕ちた〉も同然。

*1断続的に執筆されたエッセイ『黒いアラブ人』のこと。

*2プリーシヴィンとソフィヤ・パーヴロヴナはモスクワを脱して故郷フルシチョーヴォをめざす。故郷には妻のエフロシーニヤ・パーヴロヴナと子どもたちがいる。三人とはその妻とソフィヤと作家自身のこと。ソフィヤの夫(コノプリャーンツェフ)がそれを疑わないはずがない。

 雨もそう〔地獄に堕ちろと〕言っている。では、お天道様がどう言うか待つことにしよう。それと問題は、彼が本当に疑っているかどうかということ……疑ってどうなることでもないのだけれど。でも、地獄……いや、墓とはそも何? 「結婚は愛の墓場」と言うではないか。
 それにしても、嫌な雨である! とにかくセミヴェールフ〔エレーツ近郊の村か?〕へ出かけたい! お天道様はそれには反対らしい。だからこっちを見ようともしない。

8月25日

 〔モスクワへ〕Сを送り出し、〔村から〕フローシャを連れてきた。

 これまでの経緯――8月4日(土)の朝、薪づくりをするからとワシーリイが呼びにきた。鋸を引いていると、Сが飛び込んできて――
 「エフロシーニヤ・パーヴロヴナが来たわよ!

はるばる故郷から妻(フローシャ、エフロシーニヤ・パーヴロヴナ)が夫を訪ねて近くまでやって来たこと。これと似たことは以前にもあった。モスクワ近郊でフローシャと同棲を始めてから一年後の1904年、独り首都(当時)ペテルブルグでものを書き始めていた夫のもとに、赤子〔第一子、のち死亡〕を抱き、連れ子〔ヤーシャ〕の手を引いて、はるばる妻が上京してきたのだ。

 われわれ人間はみな役者だ。重苦しい空気が漂う。気詰まりもいいところ。フローシャがСを村に招待する。5日(日)、雨。自分はいたく興奮して、村には行かないなどと言う。おかげで最初の疑惑の種を自ら播いてしまった。6日(月)、雨。馬車をやる。午後4時半、到着。Сが言う――
 「ああ、あたし、怖い。あたし、真っ直ぐな性格(たち)だから、きっと何もかも〔白状してしまう〕……とてもあたしにはそんなことできないわ!」そう言ったかと思うと、すぐに――「ねえ、あなたの本をどれか読みましょうよ」
 こんなときにいったい何を読むと言うのだろう!

「われわれはみな役者だ」という言い方は、のちのち(1940)、ワレーリヤ・ドミートリエヴナ・レーベヂェワ(リオルコ)と結ばれたときにも、たびたび口をついて出てきた。日付のないある日のメモに――「生活の表層(おのれの内なる生ではない)はわたしという役を演ずる芝居にすぎない。それを通してのみわたしがわたし自身を知ることのできる人びと――さほどにも繊細な役者とよばれる人間たちがいる。自分にとって厄介なのは何かと言えば、それは自分の役が見事なくらい下手くそに演じられてしまうことではないか」。さらに日付のないメモ――「1914年、人と交わっても、結局のところ自分自身と向き合ったにすぎないようなこと。確かに生(き)のままで姿で登場しても、そこに「いいもの」はあまり無い。じっさい無いのである。おそらくわれわれは自分自身に不満であり、今の自分よりもっと面白い何かを自分から引き出したい、自分を越える者になりたいと願っているのだ。きみはどう思うか? わたしは、それは……人びとの前で自身の個性を明らかにすることの難しさに、それを意識し過ぎることに由来するのだと思う。だが、まさにそれこそ、われわれが役を演じて自分自身の代わりにレゲンダを作り出してしまう最深の理由なのではないだろうか」。また1943年の日付のないこんなメモ――「リャーリャ〔妻ワレーリヤ・ドミートリエヴナの愛称〕が何よりわたしを戸惑わせるのは、彼女の止むことなきゲームだ。彼女は人生における才能豊かな俳優であり、自分が演じているものを完全に信じ切っている。自分はときに、それが彼女の愛のヒロイズムであるとわかっていつつも、この人〔彼女〕はその愛をただ演じているだけかもしれないと思って〔疑って〕しまう。そうわたしに思わせるもの、まさにそれが彼女のヒロイズムなのである。生のまま、自然のままではあり得ない。そんな愛し方ができるのは〈神のごとき役者(ボージイ・アクチョール)〉だけ……では、自分はどうか? 自分が彼女を選んだのも、共に演じ合うほうがいいと思ったからではないのだろうか?」。「1944年7月21日、人と人との出会いには常に〈演劇(プレツタヴレーニエ)〉がある。誰もが他人の前で自分自身の役を演ずるが、登場人物は必ず二人――一人は役者、もう一人は観客。男女の出会いも然り。互いに演じ合うのだ……」。「1944年9月12日、だが、それは自分にとっては……われわれの愛もまた演技(遊び)? いや違う、そうじゃないだろう。われわれは愛人同士ではなく、互いに興味を示した二人の舞台俳優が出会ったということだ」(リャザーノワ編『あなたとわたし』の草稿から)。

 神父を訪ねる――嗤うべし。7日(火)の朝、ようやく太陽が顔を覗かせる。思い切って子どもたちを連れて散歩に出た。セミヴェールヒを〈酔っ払いども〉がうろついている。昼食後、リーヂヤ〔長姉〕に会いに行く――じつに陰鬱な訪問(薔薇を)。夕方、公園とヂェヂェーンツェフの家屋敷〔エレーツ近郊の元地主の邸宅と庭〕を散策。8日(水)、リーヂヤがわたしの家の窓のテラスに陣取って、何か読んだり話をしたりしている。エフロシーニヤ・パーヴロヴナの挑戦的態度。夜、Сにトゥルゲーネフゆかりの土地について話す。悪夢の夜の〈花と十字架〉。9日(木)、Сが子どもたちに食事を出す。彼女の花と上機嫌(しみじみ――独りでいると気が狂いそうになるが、二人一緒だととても愉しい)。10日(金)、セミヴェールヒフで頭がおかしくなる。夜、子どもたちと一緒にあちこちの池を見て回り、水の上に張り出したトウヒの若木を観察。少しは父親らしい〈優しさ〉も。11日(土)、セミヴェールヒの林を歩き、そのあとカブラの根*1を掘りに。昼食後、会話。午後、セミヴェールヒでゴレールキ遊び*2。次第に苛々が昂じてくる(Сが夫のもとに帰る日が近づいてきたためだ)。猫や犬に八つ当たりし、子どもたちを怒鳴ってしまう。深夜、藁、〈淡い巨きな月〉、子どもじみたカオス〔混乱状態〕、あたりはしんと静まり返っている。12日(日)、エレーツ市へ小旅行、そのあとフルシチョーヴォへ。

*1ブリュックワ(スウェーデンカブ)は普通のカブより大きい。根は食用にも飼料にも。

*2鬼ごっこの一種。ペアを組む相手がいれば鬼には捕まらない。古くからある遊びで、『ネストルの年代記』にも出てくる。

 独りならもう立派な気狂いだが、二人一緒だとそれは愛、世界を敵に回しての勝利……

 明るすぎるほど明るい。ついこんなことを口走る――
 「何もかもいい具合に進んでいる。これはつまり、自分の心にまだ無垢の片隅が残っているということなんだ。なんせこんなことは、あとにも先にも初めての経験だからね」
 「そうね、そのとおりだわ」と彼女(自分のことに絡めて)。
 彼女はどうやら、最初にこちらがふざけて二人の親密な関係云々を言いだしたとき、自分がどんな言葉を口にしたか、忘れてしまったようだ。彼女はこう言ったのだ――『あたし、ぜったい自分を許さない。だって自分の心には究極的善のようなのがあるのに、エフロシーニヤ・パーヴロヴナを不幸にするなんてできないもの」
 その後、そのモチーフは思い出のかけらも残さず完全消滅。邪魔をしているのは夫との関係だけになった。

 地主屋敷の中庭にはてんてんと、連日の雨で緑を増した干草の山。動かない脱穀機。乾燥させるために麦の束をきれいに並べているが、お天気次第でまたぐしょぐしょになる。上空に新たな雨を告げる低い黒雲。玄関口に姿を現わしたのは、白髪の、プリューシキン〔ゴーゴリの『死せる魂』に出てくる度外れにケチな地主〕そっくりの小柄な老人――かつてこの屋敷の主だった男だが、今は近所を物乞いして歩いている。彼の方にすたすた歩み寄るのは泥棒のワーシカだ。こちらは現在コムーナの管理人をしている。旧地主たちに対するこの泥棒の態度は、そんじょそこらの安芝居とはわけがちがう。  ワーシカが言う――
 「どうだい、パイプは見つかったかね?」
 地主――
 「見つけたよ、太鼓のそばにあった」
 ワーシカ――
 「なんでおれはそこに目が行かんかったかな。なんで気がつかんかったかな!」
 「なに、気がついてたのさ。おまえが盗んだのだろう?」
 「そりゃそうだ、なにしろあれは25ルーブリで売れるからな」
 沈黙。
 「泥棒どもめ…なんて奴らだ。まったくとんでもない連中だよ」
 「どんな連中だって?」 
 「特別な連中だと言ってるんだ。法律も何もあったもんじゃない。最悪最低な連中だよ」
 「どこが最悪なんだい? 嘘言うなよ。いいかい、そう思ってんのは、物を盗まれた奴らだけで、ほかの奴らにゃ、そいつらは文句なしに最高の愛すべき人間なのさ。貧乏人にはじつに憐れみ深いし、ほかの奴らに対しちゃ、そりゃあ確かに情け容赦のない連中だがね」

 アルチョームがやって来る。これは狼も尻尾を巻いて逃げ出すほどの我利我利亡者。ボリシェヴィキから給料を貰っている。上から下まできれいな白尽くめで、赤いのはいつも血走っている目だけである。
 あれこれ話しているうちにレーニンが殺られたらしいとの情報〔を得る〕。ところがどうだ、そういうことにはいっこう無関心なのである。どっかおかしい。まるで狂犬が始末されたらしい――この〔革命〕事業を為し遂げるためにわれわれに向けて放たれた罪深くも大いに役に立つ犬、でも今は不要になった畜生がどこかで殴り殺されたらしい――その程度の反応しか示さないのだ。

「レーニン暗殺さる!」の噂はこのころよく聞かれた。

 百姓たちはわれわれに一片の土地が欲しくて自分の魂を売り飛ばしたものだから、大嘘つきのえらい大法螺吹きになってしまって、今ではこんな碌でなしの泥棒どもと折り合いをつけなくては生きていけないのである。

 われわれは不幸な人間を見るような目で見られている。

 「おまえさん方は貧困階級の話なんかしとるが、そんなのはつまらんチンポさ。いいかね、貧困階級てのはボリシェヴィキのことだよ。貧乏臭い小屋なんかに足を踏み入れるまでもないが、ちらり覗けば、束になった釣竿なんかが見えてくる。それだけだ、ほんとにそれしか持ってないんだ。住んでいるのは誰か、ボリシェヴィキだよ。それで、農業はどうなってる? 野菜作りはどうだい? エンドウには水をやったかな?」
 「すくすくと伸びてる、立派なもんさ!」
 「それでこそコムーナだ!!」

 アルヒープが馬に乗ってやって来る。頭のいい、狡猾な、厚かましい百姓だ。どんな政府の仕事にも就いて、そのたびに水の中から少しも濡れずに出てくる〔巧みに罪を逃れている〕男である。
 「共産主義の経営をおれは立派な正しいものと思ってる。でもやっぱり、よそんちの親父にもものを食わせなくちゃならんところが、おれは嫌なんだ」
 「おめえはいつも自分のためにだけ生きたいわけだな?」
 「自分のために生きてどこが悪(わり)い? 赤の他人のために働くだけじゃねえかよ――農業だってコムーナだって!」
 こっちへ来るのは主任のシーニイだ。この男はクーデタが起これば吊るされるとわかっているから、つねに耳を欹てている。逃亡のチャンスを見誤らぬよう注意を怠らない。
 「どうだい、町の様子は?」
 「コミサールの演説を聴いた。こんなだった――『同志諸君、たとえば村に貧民が30戸とブルジュイが100戸あれば、ブルジュイは消えてもらわなくてはならない。まず第一に、貧乏人に窓の下の菜園を差し出すこと。なぜなら貧乏人は貧しいから、そうするのが当然である。第二に、貧乏人にスプリング付きの敷布団を、第三に貧乏人の家には蓄音機が置かれなければならない。この30戸は生き延びるが、ブルジュイ100戸は消えてもらうしかないのである』
 アルチョームが甘言で釣ろうして――
 「どうしてまた100戸対30戸なんだろう?」
 アルヒープ――
 「んじゃ、これまでどんなふうにやってきたんだ?」
 アルチョーム――
 「いろいろやってきたが、『やめ!』のひと声で、長柄を返す〔すごすごと黙って引き返す〕しきゃなかったね」
 アルヒープ――
 「中国人なら〔ブルジュイなんか〕機関銃であっさり片付けちまったろうな。いや兄弟、そうじゃない〔中国人じゃない〕、以前はおれ自身がそう考えてたってことだ」
 アルチョーム――
 「そうか、考え直したわけか?」
 アルヒープ―― 
 「もちろん考え直したわけさ」
 アルチョーム――
 「ほんとのとこ、どうなるんかな?」
 アルヒープ――
 「でも、おれはどこにも出ていかんよ。端っこに並んで、《右へ倣い右!》だろうな」

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