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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 09 . 23 up
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(1918年7月11日の続き)

 首長にアレクサンドル・アレクサーンドロヴィチが選ばれることはなくなった。株の取引でなんとか口を糊していたが、ある仲買人はこう言ったものだ――
 「ほんとに飛行機だよ、あの人は。たしかに飛ぶには飛ぶんだが、降りてこない」
 わたしは思った――革命の年に彼は本物のブルジョアみたいに声がしゃがれだし、ひょいと姿を消してしまったのだが、もしかしたらそれは、独特の飛行本能からどっかほかの土地へ飛んでいって演説をぶち、その大胆な発言が災いして消息不明になったのかもしれないぞ、と。ところがなんと、わたしは彼とばったりプレチースチェンカ〔クレムリンの南西にある通り。現在その近くにプーシキンやトルストイの博物館がある〕で出くわしたのである。あまりの偶然に、モスクワの花という花が一気に満開になったかのようだった。しかし待てよ、わたしは思った――この男、何か隠しているぞ。
 「いやぁきましたね、反革命の闘士!」
 「何を言ってるんです?」彼のほうがびっくりしている。「わたしは反革命派じゃありませんよ」
 そう言って、ひょいと後ろを振り返った。
 どこかで議長のようなことをやっていて、暮らしぶりは悪くないと言う。仕事らしいことはしてないが、職務上お金だけは受け取っているのだそうだ。
 ロシアについては相変わらずリベラルで激越な調子で、こう高飛車に――
 「ロシアは消滅だ、もう何も残らない! ハハ、ロシアらしいや。未来もない、まあ国際会議に期待するんだね、それが開かれたらわかるさ――何もかも分割分配されて、なぁんも残らんよ。ロシアは影も形もなくなるんだ」
 延々と喋り続けて、高く高く舞い上がっていく。ブールヴァールの路上にまるまる3時間。驚くのは、ロシア完全消滅という(そのなんと言うか)、ま、異常なまでにオリジナルで最高度にリベラルな何かがその口から発せられたという、その事実。そう、もはやロシアはない! 存在しないのだ! それはもう彼の、彼らに対する(誰に対するだって?)懲罰であり、われわれに対する報復(仕返し)なのであった。たしかに、われわれだって飛ぶのは上手(うま)い。じじつ飛んでる〔ようなものだ〕し。
 3時間ほど、わたしは聞いたり聞かなかったり、眠ったり眠らなかったりしていたが、夢は見た。軍事革命時代のいかにもありきたりな夢だったが、不意に何か爆発したらしく、市の大半が崩壊した。しかし自分はなぜかかすり傷ひとつ負わず、何が起きたかとただもう素早く野次馬の一人に成り下がり、やたらあっちこっち歩き回って、目ばかりきょろきょろさせていた。

 イグナートフ〔母マリヤ・イワーノヴナの実家。一族は旧教徒。前出〕の家で。ロシアはどん底にある、モラルのことは忘れる必要がある。ただなんとかこの底無し地獄から這い出さなくては……革命の初期のころ、自分もそんな気でいた。もし〔1〕905年がなければ(装甲車もこんな極端な復讐心も)信じないのだろうが、しかし、わたしはそれを見てしまったのだ。いったい自分は何に期待をかけていたのだろう?

 考えているのは、権利の神聖さ、経済の必要性についてだ。たとえば、ポベドノースツェフはマルクスと同じことを、まったく同じことを知っていた。ただポベドノースツェフは必然的なものから秘密(ターイナ)を創り出そうとし、マルクスはすべてをひっくり返して、『さあ見たまえ!』と言ったのだ。それはわかる。マルクスはユダヤ人だし、国籍を失くしたすべてのユダヤ人と同じユダヤ人なのだから……

コンスタンチン・ペトローヴィチ(1827-1907)政治家、法学者。元老院官吏の経て、モスクワ大教授(民法〕(1860-65)、アレクサンドル二世の師傳から、宗務院総裁(1880-1905)へ。アレクサンドル三世に影響を与え、その反動政治の理論的指導者となって、ナロードニキと分離派を弾圧。1905年の革命で失脚した。ウラルの作家マーミン=シビリャークは彼の死の報を聞いて、母にこんな手紙を書いている――「この男(ポベドノースツェフ)はまるまる四半世紀、ロシアの歴史にブレーキをかけ続け……文学は首に重石を付けられていたのです」。

 個と集団を繋ぐ橋は、ナロードが拠って生きているところの、みなが周知の欺瞞の雰囲気(アトモスフェア)であり作り話(レゲンダ)だ。愛における欺瞞(アブマン)=橋(モスト)の結婚なのである。ペチカのそばに坐っている老婆なら、そのことを骨身に染みて知っている。

 ブールヴァールは原っぱのように生きている。ぐんぐん草が伸び、オリンポスの神々はその名を轟かせている。神々は何か決しようと思うのだが、実際のところ、草ぐさの成長のために生贄を供しているにすぎない。

7月12日

 怒ることのできない人間。
 〈歴史的〉と称する〈事件〉が清算(公的報道による)されたあとで、わたしはブールヴァールの馴染みのカフェに出かけた。そしてそこで考え込んだ――『ブールヴァールに草のように生えている人たちは、それでどうなったのか、さらに何かが付け加えられたとか改善されるとかしたかのだろうか、それともあのオリンポス山でひとりでに戦争が始まり、ここでもひとりでに草が伸びてくるのだろうか?』。わたしの隣の席に、旧くからの友人がそっと腰を下ろした。たいそうなインテリで、教授と言ってもいいくらいの男〔どう考えても、これはプリーシヴィン本人〕である。挨拶(ありきたりの)その他を交わしてから、彼はわたしに向かって少し怪しい独白(モノローグ)を始める――
 「かかる状況下において最も恐ろしいものは何か? それは自分が怒る権利を持たぬということです。彼は死んだ女の亭主で、われわれは恋愛によって生まれた私生児にほかなりません。ほら、ご覧なさい、あそこに立っているのは単に腹を空かした男です、あの男は腹を立てるでしょう、これから恨みがましくふらっと盗みを働くか、通りに出て、こんなふうに喚き始めるでしょう――『パンだ、パンをくれ!』と。男はそれが理由で銃殺されかねないのだが、幸いなことにそれは免れます。しかしこのわたしは飢えに対して怒る(腹を立てる)ことができないのです。人はパンのみにて生きるにあらずということを知っています。だから、そこにわたしの恨みはない。ではどこに? 〔自問する〕わたしをたえず苦しめているのはまわりの人間たちです。そのことでこちらはひどく傷つけられて、立ち上がれなくなったりします。しかしいったい恨みは悔しさはどこにあるのでしょう?
 ご存知のとおり、わたしには新聞にものを書いて得たお金で建てた小さな独立農家(フートル)がありました。隣のフートルの持ち主は富農(クラーク)でしたが、仲良く打ち壊されました。彼は本当に怒って、委員会に出向いたり、あっちにもこっちにも苦情を訴え、抵抗していました。今はすでに協同組合の一員になっています。一方わたしは、クラークのようには自分のフートルのことで怒ることができません。なぜかと言えば、フートルはもともと自分の土地ではな〔遺産によって手に入れたもの〕、わたしにとっては単なる付属物、気晴らしのようなものです。自分は地主の柄ではなく(正直言って)土地はナロードに帰すべきもの、ナロードこそ地主と考えているので、心の底から怒るということができないのです。さっきの腹を空かした男やクラークのように直接行動に出るほどの恨みや辛みなど、いったいどこにあるのでしょう? 自分が働いていた雑誌社ですが、あれもフートルとどこか似たとこがあります。雑誌社は(ひょっとしたら)あすにも再開されるかもしれません。なのに、わたしの悔しさが消えることはないのです。
 『わたしのような立場に置かれたら、普通の人間は自分の財産を全力で守るのでしょうが、わたしは自分の財産についても自分の悔しさをはっきりと見つけられず、すぐにロシアのためとか(でもそれはどんなロシアだろう?)、海峡とか、古い国境がいっぱいあるとか、属領としてポーランドやラトヴィアを抱えたロシアのためとか、ツァーリのいる、あるいはツァーリなし、ポーランドなし、ラトヴィアなし、ウクライナ、シベリア、カフカースなしのロシアのためとか、要するに話が自分自身のことではなく、つまり個ではなく〈大局的な方(ヴァアプシチェー)〉に行ってしまうのです。そこからわが祖国の物的本質の究明をめぐる長いながい思索が始まるのです。そのためならわたしにだって(飢えた男がパンのために、クラークが自分のフートルのためにやったと同じことを)やれるでしょう。でも、それでもわたしは自分の恨みを具体的に捉えることができません。フランス人がla Patrie(祖国)のために戦うようなことが、わたしにはできない。そのとき自分は、その中ぐらいの〈ヴァアプシチェー〉からさらに全面的〈ヴァアプシチェー〉に移っていき、結局のところ、それを、自分の根本的な恨みを、個性の侵害やその神々しい自然本体(プリローダ)の蹂躙のなかに求めているのです。そこまで行ってようやく怒りを発することができる――そんな気がします。それでようやく立ち上がったのです。ああ、それにしても、なんで自分はこうなのか、なぜもっと強烈にそれを君主制の時代や戦争のさいに感じなかったのだろう? むろんインテリゲンツィヤの一人として自分は個を擁護してきたし、今もしている。でも、今いまの恨みは今日起きていることへの恨みではないのか、してみると、自分は、最大級の〈ヴァアプシチェー〉の上ではなく、自分の個人的特性(インヂヴィドゥアーリノスチ)の分野における一種特別な位置に立っているのかも。そこでまたも始まるのです――これは個人的特質の問題だ。自分の理解では、それは個が棲む小さな家のようなもので、もし小さな家=インヂヴィドゥアーリノスチについて語るなら、まっすぐ自分の村のぶち壊しに遭った普通の家へ、発行停止になった雑誌社へ、つまりインテリである自分が、恥ずかしくてとても怒れないと思っているもののところへ出かけていくべきなのです。自分のまわりでは誰もが今、怒って叫んでいます――『すべて責任はボリシェヴィキにある、悪いのはボリシェヴィキだ!』。なのに誰よりもひどく侮辱を受けている自分は、怒る権利さえ持たず、ひたすら真の自分の恨みの本質を究明しようとばかりしているのです』。

7月17日

 自分で自分に腹を立て、気紛れを起こす。なぜそんなに動揺するの? どうしてそんなに反抗的になるのと訊く――まるで、〔それがあたしには〕わからないという顔で*1。あっちにも家族が、そっちにも家族。でも、こっちには秘密めかした旅がある*2

*1唐突だが、〔あたしには〕のあたしはソフィヤ・パーヴロヴナ・コノプリャーンツェワである。高等中学時代からの親友、アレクサンドル・コノプリャーンツェフの妻。

*2その意味するものはソフィヤ・パーヴロヴナとのロマンスである。

 手紙――それは空飛ぶ恋。大聖堂付き長司祭の娘に〈空飛ぶ恋〉をし、そのあと「祝福されし幸多き無垢なる乙女マリヤ」宛に(もっとも、封筒には「大聖堂付き長司祭パーヴェル神父の御許に」と認めたのは失敗だったが)出したというノーヴゴロドのお馬鹿さん

これはプリーシヴィン自身のこと。ソフィヤ・パーヴロヴナは正教司祭の娘。

 これでは恥ずかしくて、とてもまともに顔を合わせられないにちがいない。

 バターとパンが手に入った。やっとの思いでバターとパンを手に入れたトラーヴィナは、男の子の手を引いて刑務所に〔面会に〕行った。パンとバター。半分は自分たちのために残し、あと半分を彼(夫)に。ラトヴィア兵が言う――
 「彼はここにはおらんよ!」
 「そんなことないわ、きのうここにいたのに」
 「おらんと言ってるだろう、真夜中に銃殺されちまったんだよ」
 絶望と呪詛の喚き声、気の狂ったような号泣。涙、涙、涙。女と男の子が帰ったあと、地べたにパンとバターンの二つの包みが転がっていた――1つは夫に差し入れ、もう1つは自分と子どもたちに取って置いたのに。

 相伝(そうでん)のインテリゲンツィヤとブルジョアジーはいずれも、ボリシェヴィキの観点に立つこともそれによって彼らを裁くこともできない(裁くとすれば、そもそもの前提〔出発点)から審理を始めなければならない)という根本的欠陥のために苦しんでいる。
 カデットは言うまでもないが、今では右派の社会主義者たちもドサクサ紛れにこんなことを口にする――「要するに、馬鹿だったんだ」。そこからおのずと出てくる結論――「なに、本来の道に戻れば、そういつまでも馬鹿ではおれないさ」

 ジャーナリスト〔記者〕たちのカフェ。新聞社はすべて閉鎖されているので、最新の情報を得ようとすれば、〈カフェ・ジュルナリーストフ〉に足を運ばなくてはならない。常連客は2つのグループに分けられる。1つは報道関係者(記者)、もう1つはその情報について考える人びと、つまり社会・政治評論家(プブリツィースト)だ。
 ヴェテランの通報者であるラエーツキイには堂々としたところがあり、もうすぐ40に手が届く。たいそう権威あるもの言いをするので、新米記者たちはあっさりと信じ込まされてしまう。きのう彼はわれわれに向かって、モスクワへのドイツ軍守備隊導入に関する最後通牒(脅し)は、ドイツとミリュコーフのカデットが交わした合意に基づいたものであると断言した。そのあとマールトフのいる小卓へひょいともぐり込んだが、30分もすると、これまでとはまったく反対の解説――レーニンの演説と中央執行委員会の会議はドイツとボリシェヴィキの合意のあと(ポスト・ファクトゥム)に開かれた、したがって会議そのものがお芝居だったなどという解説を持って、われわれの席に戻ってきた。

本名ユーリイ・オーシポヴィチ・ツェデルバウム(1873-1923)は革命家。コンスタンチノープル生まれ、父は商人。ペテルブルグ大学を中退し、革命運動に入る。レーニンの僚友となり、その〈闘争同盟〉に参加、1897年シベリア流刑となる。1901年に亡命、03年ロシア社会民主労働党第二回大会でレーニン派(ボリシェヴィキ)と対立し、以後メンシェヴィキの指導者となる。二月革命で帰国、〈左派〉として十月革命に協力したが、国内戦ではソヴェート政権に反対した。1920年に亡命、ドイツで死去。回想録『社会民主党員の手記』(1922)ほか。

 ミリュコーフについては、彼にはロシアは売れない。万事こう考えるべきである。すなわちミリュコーフはドイツの味方、マクラコーフは同盟国側である、と。二人ともカデットだ、彼らをひとつにすることで全面的和平と仲介者としてのカデットの勝利は得られる云々。

ワシーリイ・アレクセーエヴィチ(1869-1957)はカデットの指導者。弁護士、国会議員。1917年にフランス駐在大使だったが、亡命した。帝政末期の内務大臣ニコライ・マクラコーフ(1918年に銃殺)の実兄。

 浅薄な報道。
 チーストポリがチェコスロヴァキア軍に占拠された。カザンから装甲車が姿を消している。ヤロスラーヴリがラトヴィア、マヂヤール(ハンガリー)、中国、フィンなど(ロシアを除く)すべての民族からなる混成ボリシェヴィキ部隊に包囲された。都市が破壊され、煙突だけがにょきにょきと。ヴォーログダも占領下にあるらしい。
 概略わかっているのは――根本的変化がいつ起きるかは不透明だが、大きな急転があったこと。以前ボリシェヴィキの軍隊は至るところで勝利(戦闘を停止して兵士同士が親交する(ブラターニエ))を収めた。しかし今はあっちでもこっちでも兵士たちが逃げ出している

国内戦はボリシェヴィキの目の前に一大課題を突きつけた。それは軍隊の創設と資金等あらゆる必要・手段の最大限運用であり、またそのために欠かせぬ国家の生命活動の全域にわたる権力の獲得およびその管理統制下での中央集権化である。戦時下におけるこの一大課題に、中央集権化された(市場に関わらない)社会としての社会主義というボリシェヴィキ本来の思いが結びついた。1918年7月から1920年の夏にかけての布告によって、大・中企業の80パーセントまでが国営化された。1918年7月22日付けの人民委員会議(СНК)の布告(「投機について」)によって、すべての非国家的商取引が禁止された。1919年の初めまでに民間企業は完全に国営化されるか閉鎖された。国内戦後、経済関係の新環境への完全移植が始まった。1918年11月〔十月革命〕の勝利のために全面的労働義務(強制)を伴う〈戦時共産主義〉(1918-20)の政策が提唱された。〈戦時共産主義〉政策には、一方に第一次大戦期の経営関係を国家的観点から調整しようとする試みがあり、もう一方に世界革命に対する期待から市場に関わらない社会主義への直接的移行の可能性というユートピア的な思惑があった。そのため土地に関する布告は事実上廃棄されてしまった。1918年11月に農産物徴発制度(1919-21)が導入された。それは穀物その他の食糧品を市場よりかなり低い定価で強制的に国家に引き渡さなければならないとする農業生産物の調達システムである。

 ソロモンたちの日常。
 ミノール*1。徒刑が彼に並みのソロモンと比べていくらか深化したものの見方を授けたようだが、それでもまだボリシェヴィズムの勝利の要因のユニークさには達していない。アッシジの聖フランチェスコに勝利をもたらしたもの、それは今もまだロシアの奥深いところに隠されている。「苦しむほどにその歓びは完全なものに」*2

*1オーシプ・ソロモーノヴィチ(1861-1932)は人民の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)運動の参加者、のちにエスエル党員となった。

*2アッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)お気に入りの思想の一つ。フランチェスコに関する記事文書は数多くあり、中でも多くの人に親しまれているのが「聖フランチェスコの小さな花」。

 ソロモンたちは無人島では生存できない。専制国家転覆のスペシャリストである彼らの社会主義は、たとえば、女が妊娠しソロモンたちが全員おのれの事業を成し遂げた暁には(つまりロシアが妊娠し、腹が膨れて、ちょっと醜くなったときには)、もう聞こえなくなる愛の歌のようなものである。情夫たちに罪はない。

 トロツキイはアナーキスト=テロリスト。
 ゲルシェンゾーン〔文学批評家、前出〕の話に、ひ弱な情夫から(永遠の夫とは正反対(変な話!)のひ弱な色男から生まれた赤ん坊が握っている小さなナイフ――それでひと突きしたとたんに途端にインテリゲントであることをやめたというのがある。この問題の本質(私の場合は〈棍棒でやっちまえ!〉だが)は、「ナイフでひと突きできない赤ん坊は罪の意識に苛まれるにちがいない」だ。その苦しみを、越えられないより高度な心の状態として受け容れる必要がある。
 井戸の中の太陽のことも忘れるべきでない。ヨーロッパのブルジョアジーはその培った文化の中で太陽を(所有物(権)、すなわち力を通して)大事に守り抜いたのだ。

 興味深いのは、セマーシコがインテリゲンツィヤを憎んでおり、それにはそれなりの必然性があること。なぜかと言えば、ボリシェヴィキとして彼はすでにインテリゲンツィヤではなく、スチヒーヤの武器(インテリに対するスチヒーヤ)であるからである。だが、アッシジの聖フランチェスコに通ずるその聖なる原理も、つまるところは対インテリゲントのものなのだ。
 問題は、そのインテリゲントがいったい何者で、その本質はどこにあるかということ。その価値(ツェナー)と罪(ヴィナー)――わが国にはケーレンスキイという具体的な個(個人)がいて、彼を裁くことはインテリゲントを裁くことを意味するのである。これは第一に、言葉で魅せる情夫(二月の愛)であり、その情夫その美辞麗句と対決するのが永遠の夫の〈真実(プラウダ)〉なのだ。実際にそれが真実であることが今、明らかになろうとしている。
 二月の情夫の聖なる嘘と十月の永遠の夫の醜悪きわまる真実。
 もし誰かを愛し感ずることがあれば、そこには(どこかにそこらに)祭壇(アルターリ)があるだろう――「だが、その祭壇に足を踏み入れてはならん。その逆だ。振り返っておもてを反対の方に向けるがいい。その先は(見よ!)すべてが闇の底に沈んでいる。ただおまえは、おまえの背後の泉から汲み揚げた愛の力によって行動するがいい。そうして忍耐強く待っていれば、秘密の声が呼びかけてくるだろう。声を聞いたら、後ろを振り向いて、おのれの内へ真っ直ぐな光を取り込め」
 農民のうち最も貧しい人間〔についての〕神話を通して情夫を罰すること。そのような人間=階級が現実にはないにせよ(それは幻想)、彼はインテリゲント(情夫)に対立する存在として造られたにちがいないのだ、そしてこの世に出てきて、永遠の夫のしかめっつらとして動いたのだ(シチェチーニンを忘れるなかれ)。

アレクセイ・ゲー・シチェチーニンはペテルブルグの異端宗徒の一人。前出。1915年3月2日の日記の注を。

 カフェーではさらに個(リーチノスチ)について語られた――「おたくらは相も変わらず個に固執している。向こう〔ボリシェヴィキ〕だって高遠なるリーチノスチの名において共産主義を引き入れようとしてるんじゃないのか?

この日の日記に新聞(「イズベスチヤ」1918年7月17日の第5面)のスクラップが糊付けされている。それは歌手のシャリャーピンに向けられた記事で、題して『民衆の出だが、民衆のためにはならない』。書いたのはボグスラーフスキイ(推定)、署名はБ-аとだけ。「自然がモラル上の重荷に耐えられぬ者たちに天才や大きな才能を賦与するとき、人間世界に道徳的畸形が生ずることがままある。天才がリーチノスチを凌駕するのである。そしてそのときその不公平をつい法の懲罰的な手段を用いて標準化したくなる。芸術に対して(芸術作品だけでなく、もっと広く、芸術家本人にも)国家や社会の法についての問題意識が高まってくる。そのさい叫び立てる者たちが出てきて、これは芸術家のリーチノスチの〈神聖な自由)の侵害だと主張する。天才は果すべき義務を担っている――多くを賦与された者はより多くを求められる。もしあまりに鈍感すぎる芸術家が自分の芸術は民衆のためにあるという内なる声を聞くことができなければ、無理にも(力を持って)聞かせる必要があるだろう。アーティストがもし信念からそのような社会主義化の内なる要求に耳を傾けようとしなければ、彼(彼女)は〈社会主義化〉されなければならない。偉大なるアーティストたちの芸術のこの社会主義化をいかに実現するかは、また別問題である。もしかしたら、そこで国家が芸術家と民衆の間の思わぬ仲介者となって、その相互関係を標準化(また規定化)することになるかもしれない。だが、芸術家が最終的にひと握りの投機家たちに身を売るような事態というのは危険極まりないし、芸術家にとっても文化にとっても、いや芸術家自身にとってもそれは屈辱以外の何ものでもないはずだ」。

 徒刑囚のミノールは、トロツキイがブルジョアどもに便所掃除をさせてやると嚇していると聞いて、言った――なぁに、あいつはこれまで一度も便所掃除をしたことがないんだよ、だからそれを自分がいちばん恐れているのさ、と。

 地方でぎゅうぎゅう詰め〔居住空間〕の暮らしをしている一家をどうわたしは救ってやったか。そのころ自分の家族は町に背を向けて、トスカと飢えの中で暮らしていた。あるとき、ペテルブルグのマダムが子どもたちを引き連れてやって来た。辻馬車の御者と喧嘩になったらしい。しかしこちらもさんざん窮屈な思いをして暮らしているので、狭い自分の場所からマダムを追い払い出そうとして、思いつく限りの恐ろしい話をしてやった。それに対してマダムは――
 「もちろん、あなたは人民の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)の党員ですわね?」
 「党というものはいいものです」自分は慇懃に呟いた。それでそのときふと閃いたので、話を続けた。「確かに立派な党ですよ、人民の意志党は。自分はとても敬愛していましたが……でもね、わたしは党員じゃない」
 「あなたは党員じゃないのですか?」
 「そう、党員じゃない。じつは自分は本物のアナーキスト=テロリスト党の指導者の一人なんだよ」
 マダムはびっくりして逃げていった。

 「いやはや、あんたもおめでたい人間だなぁ! だってあれは必要じゃありませんか、役所は……」
 「そりゃ必要だ。でも、いいかね、きょうは必要だ、あすも必要だ、が、あさってになって、なんかの拍子に必要がなくなるかもしれんじゃないか。現に歴史を見れば……」(ドストエーフスキイ『プロハールチン氏』)
 「まあ、ちょっと待ってくれ、この頑固者、わしはおとなしい人間だ、きょうもおとなしいし、あすもおとなしい。ところが、そのうちおとなしくなくなって……〔乱暴な真似をする、それで手もなく自由主義者になっちまうんだ!〕」(同上)。

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