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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 06 . 08 up
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 12年前、パリのリュクサンブール公園で別れたきりの若いロシア娘。それが続けざまに夢に出てくる。輪郭も目鼻立ちもはっきりしないけれど、でも、それが「彼女」であることはわかっている。日記のその続きは「母」。この年(1914年)の夏に世を去るが、1月の時点でまだ健在である。

 母。永いあいだわたしにとって謎だったのは――なぜ最もつらい困難な時期に母がわたしに手を差し伸べることなく、わたしたちのために生き、来るべき日に備えて掻き集め、蓄え、守ろうとしていたのかということだった。そしてその未来がやってきた。わたしはもう結構な齢だが、母はまだあらゆるものを来るべき日のために大事に仕舞い込んでいる。それで、たえずこんな思いにとらわれた――もし自分らが飢え死にしてしまったら、その蓄えはどうなるのか? 今ではわかっている――彼女はわたしの息子や孫たち(たとえわたしに家庭がなくても)のうちに未来を見ており、その未来は彼女の手の内にあった。それはこちらの見つめていた人間の魂、つまり内なる未来ではなかった。最も精神的な緊張を強いられていた時期にわたしが期待していたのは援助の手だったのに、彼女の方は〈安らぎとバランスの時代〉のためにそれを用意していたのだ。わたしにとって貴重なのはその瞬間、その〈時〉なのに、母にはその先の世紀が大事だった……。母はもう齢である。「母の悲劇」だ。息子のためと思って働き、蓄えてきた。でも、その息子は無思慮で無分別。そんな子がしっかりした人間になれるとは思っていない。息子が飢えて死んでしまえば、彼女には何も残らない、つまり、もはや存在しない者を護るための蓄財なんか何の意味もないのだ。町人根性の悲劇(町人根性と悲劇だ!)。息子は海軍軍人となり、貴族社会へ、しかし結婚の相手〔エフロシーニヤ〕は農民の娘だった。母は息子の家族を認めない。
 「母の悲劇」のメシチャンストヴォ(町人根性)。それはエレーツやノーヴゴロドの商人(あきんど)の蓄財の道。たとえば、百姓から身を起こしたカールポフ、何でも掻き集めるチェレシチェンコ爺さん、そういう欲求がまるでないその息子。それと、女の王国(バービエ・ツァールストヴォ)だ。(霊の)ヒーローへの挑戦。

 アンケートを求められたらこう答えよう――これまで自分が書いた本はすべて駄目である。ただし、良いのはひとつ――これから書かれる一冊だ、と。

 その第一章――わがヒーローの誕生。
 わたしの主人公は××年に、このわたし(ヒーローでない)から生まれた。生年については、今、思い出せない。それは、フルシチョーヴォの小さな領地で父が亡くなった年……そこには並木道や何やかやがあって(青いビーバーを見よ!)……遺されたのは、わたしに未来を拓こうとしていた母であった。父は青いビーバーのタイプだ。そしてここから、まったく異なる二人の人間、今あるこのわたしと青いビーバーの人間が出てくる。後者はぜんぜん別の人間なので、わたしが彼を(一語判読不能)別の名で――С(エス)でも某でもかまわない――呼べば、なおいいし、それでわたしは彼の人生の(二語判読不能)、彼の秘密の、 唯一最も親しい証人なのである。

父は青いビーバーのタイプ――亡き父の面影とひとつになったシンボル。息子への父の独創的な約束(遺訓)というにとどまらない。少年における個性と意識の誕生を示す、ある運命の徴でもある。『カシチェーイの鎖』で〈青いビーバー〉と呼ばれているのは、主人公アルパートフの幼年時代そのものだ。日記の編者(モスクワ・2007年版)の注釈を読むと、青いビーバーは、ある古代の一族の家紋であり、ポーロヴェツの墳墓群の旧い石碑にも刻まれているという。編訳者にとってまだ謎のままだが、〈青いビーバー〉と聞くと、わたしには、幼いレフ・トルストイが兄のニコーレンカから聞いたという蟻の同胞団や、すべての人間を幸福にせずにはおかぬ例の〈魔法の緑の杖〉が思い出されてならない。それと不死身のカシチェーイのおとぎ話のことも。「アルパートフは成長してカシチェーイの鎖が不正、貪欲、悪意、隷属、貧困を鍛えてつくったものであること知る。この鎖のために人間らしい幸福な生活が妨げられている以上、それを断ち切らねばならない。若いアルパートフは鎖を断ち切る手段を探す。彼はどうしたらこの大目的に接近することができるかわからぬまま、革命家たちに共感し逮捕されるが、同時に彼は政治活動だけが完全な答えではないことを感じている。経験を積むうちに、彼はひとつひとつの創造的努力、ひとつひとつの役に立つ行為こそ憎むべき鎖に対する打撃であることを知る」(マーク・スローニム『ソヴェート文学史』第18章ミハイル・プリーシヴィンから)。


2月8日――女性公開討論会で

 ネーフスキイ大通りのいちばん目立つ場所に建てられた傑出した女性の記念像、と言えば、当然、エカチェリーナ(二世)である。賢明な女帝にして文化啓蒙の友たるエカチェリーナは、女性にとって、フェミニズムの擁護者やどっかの著名な婦人参政権論者よりはるかに多くのことをわたしに語ってくれる。


編訳者によるエッセイ(二)

永遠の女性

 かつてプリーシヴィンのエッセイ集『森のしずく』の翻訳を上梓したとき、そのあとがきにファツェーリヤの花のことを、わたしはこう記した――
 「日記によるリリック・フィロソフィカル・ポエジー『森のしずく』の前半部である交響詩「ファツェーリヤ」のライトモティーフは、著者の生涯をつらぬく愛であり、そこでは、ときにかすかに(このまま消えてしまうかと心配になったり)、ときに烈しく春の出水のように襲ってくるあの愛の記憶――文字どおり〈永遠の女性〉との出会いが物語られる。それは、象徴派の詩人たちのソフィアでも、ガラテイアでも、〈麗しき貴婦人〉でもない、  たしかに生身のファツェーリヤなので云々」と。
 モスクワ川上流のドゥーニノ村のプリーシヴィンの家の、森に囲まれた広々とした草庭を散歩していたとき、プリーシヴィン研究家の女性に「ほら、これがプリーシヴィンさんが移し植えたイワン・ダ・マリアですよ」と教えられたのを、どうした拍子にか、「そうか、あれが例のファツェーリヤなんだ」と勝手に思い込んでしまって、そのため、あとあと愚にもつかない混乱が生じた。本当のところは、ファツェーリヤというのがどんな花なのか、いまだによくわかっていないのである。プリーシヴィンは自分の内なる〈永遠の女性〉をずっとファツェーリヤと表現してきた。こちらはそのシンボリカをこそ大事と思っていたので、青臭いような植物をいつかどこかで見つけてやろうとは、少しも考えなかった。
書架の何種類かの薬草辞典にも載っていないことは、だいぶ前からわかっていたが、それでも今回、試しに旧いソヴェート大百科の〈ファツェーリヤ〉Фацелияの項を引いてみた。なんとなんと、こんなきれいな図版まで付いているではないか!

 Phacelia tanacetifolia ――一年生もしくは多年生草本植物。ハゼリソウ属。多くは葉から良質の蜜を分泌する。約80種(ある説では130種)が北米、メキシコ、ペルー、チリなどに分布。ソ連では採蜜また装飾用植物として1種栽培されている、とある。
 ファツェーリヤは蜜の採れる青い草。農業技師であるプリーシヴィンはそのとき、牧草播種(の普及運動)の仕事でヴォロコラーム郡へ行くところだった。日盛りの道をガタゴト馬車に揺られていると、突然、モスクワ郊外の大自然の中に、ぎらつくような青い海が出現する。なんとも不思議な現象だった。それはまるで「青い鳥たちが遠い国から飛んで来て、そこで一泊、翌あさ飛び立った跡がそのまま青く染まって野原になった」ように思われた。「ああ、あの青い草の海には、いったい何匹ぐらいの虫が羽音を立ててることだろう? でも、こちらは乾いた道をガタゴト行くので、蜂の唸りもさっぱりだ。わたしは、そんな大地の力にうっとりとしてしまって、仕事のことなどてんで頭になく、花に息づくいのちのどよめきに耳澄まさんものと、ただもう『馬車を停めてくれ』と相棒に声をかけていた」(『交響詩』から)。
 プリーシヴィンの「日記」の編者でもある前述の研究家(ヤーナ・グリーシナ)は、1914年の日記のライトモティーフを〈女性性〉であるとして、女性運動と戦争を挙げている。この年8月、第一次世界大戦が勃発。戦争はともかく、日記を読んでいると確かに、ほかのどの年よりも女性についての記述が多い。まずは自分の母親、マルクス主義に深入りして逮捕される前に翻訳していたアウグスト・ベーベルの『婦人論』、それでそのあと、異国での女性にかかわる一大事件が起こる。それは烈しい恋とその破局であった。相手はソルボンヌに留学していたワルワーラ・ペトローヴナ・イズマルコーワ。そのときプリーシヴィン29歳、しかも始末の悪い「初恋」なのだった。ワルワーラ・ペトローヴナはその4つ下のようだが、残念ながら、彼女自身についてはあまりわかっていない。八十歳でこの世を去るまで、数え切れないほど夢に出てきたこの女性こそ、作家プリーシヴィンにとっての詩神、つまりファツェーリヤなのである。

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