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プリーシヴィンの日記         太田正一

2010 . 04 . 20 up
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 作家ミハイル・プリーシヴィンの日記――дневники――と称されるものは、1905年から1954年までの日々の記録、メモ、夢見のノート、そして何より「個人生活の糧、生ける肉体そのもの」(のちに妻となるワレーリヤ・ドミートリエヴナのことば)である。三十路を過ぎて書き留められた、ほぼ半世紀にわたる厖大なもの。そこには、戦争、革命、民衆、そして自分……いつでもそれを見つめる自分がいた。「自由であるべき個人」の思索が、本音が、包み隠さず語られている。「一瞬一瞬変化する、活気と緊張に満ちた、探求し成長する人間の『日記』」(ワレーリヤ・ドミートリエヴナ)であった。

 日記の本格的な翻刻は1940年ごろから進められていた。それまで家族とともに過ごしたザゴールスク(現セールギエフ=ポサード)から単身、モスクワのラヴルーシン横町の〈作家の家〉に居を移したころ、その「もうひとりの〈わたし〉(второй〈я〉)」――彼は自分の日記をそう呼んだ――の整理に本格的に取りかかる必要と欲求に烈しく駆られている。同居人は二人。一人は思想家で文芸学者のイワノフ=ラズームニク(1879-1946)。イワノフ=ラズームニクはそのころ出獄したばかりで、おそらくどこにも行く当てがなかった。プリーシヴィンとのことはあまり知られていないが、じつはいい意味で関係が深い。いずれ詳しく語ることになるだろう。もう一人は、作家の身の回りの世話をしていた中年女性――名をアリーシャといい、ザゴールスクに居残った妻(エフロシーニヤ・パーヴロヴナ)の遠い親戚で、何とか説き伏せてお手伝いさんになってもらった。彼女はすでに38年3月のヴォルガの旅に同道して、オーチェルク『裸の春』(1939)にも登場する。

 邦訳『裸の春』・群像社刊。副題を「1938年のヴォルガ紀行」とした。

 〈作家の家〉の書斎の隅の大きな木箱(写真)――その中に収められた、山のような記録=日記を「もうひとりの〈わたし〉」と称したのは、それが自分の生きてきた人生そのものであったからにほかならない。すでに65歳。自分はこれまで何をしてきたか。いったい何が残るのか。いま死ねば、残るのはおそらく悔いだけだ。そう思いつつ、古色蒼然たる分身を幾つか、仕事机の上に並べてみる。
 書いた当の本人にとっても、それは手に余った。数え切れないほどのノート類――普通大のものから小さな手帳、日付もページも欠けた紙片の束。まったく記憶にないもの、ただ放り込んで置いただけのもの、色褪せ、インクが滲んで判読不能なもの、すでに文字が消えかけているものさえある。思い返せば、書き始めたのは日露戦争のころだった。主要都市から地方へ波及していくデモや騒乱、最初の欧州大戦、ロマーノフ王朝三百年の崩壊もあったし、ケーレンスキイの熱弁も、口角泡を飛ばして次々と檄を発したレーニンという男もいた……そしてスターリン。それらはどれもこの国の歴史になったし、民衆の、また自分自身の生活となり運命となった。なんと激しい社会の動きだったろう。誰もが渦中にあり、翻弄されずには済まなかった。
 長の年月を放浪者のように生きてきた。細かな字でびっしりと書き込まれた日記は、読み返すのも容易でない。イワノフ=ラズームニクにも手伝ってもらっているのだが、思ったほど捗らない。判読し翻刻するその道のプロを雇ったほうがいいのではないか。ただのタイピストでは駄目だ、ちゃんと文学の解る人間でなくては……

 

ワレーリヤ・ドミートリエヴナ

 のちにプリーシヴィンの2度目の妻となるワレーリヤ・ドミートリエヴナ(1899-1979)の回想には、スターリン独裁体制下の暗鬱な時代的背景が、人生を狂わされた人びとのそれぞれの暮らしが、さりげなく語られている。辛く厳しい生活を強いられていた。彼女をプリーシヴィンに紹介したボリス・ウヂーンツェフ(ウラルの作家、マーミン=シビリャークの甥)もまた、スターリン獄からの生還者だった。彼らのバックボーンについては、いずれ語ろう。

 「出会い」。邦訳は『森のしずく』所収・パピルス刊。

 ワレーリヤ・ドミートリエヴナが友人のウヂーンツェフに付き添われて〈作家の家〉に面接にやって来たのは、例年にない寒波に見舞われた1940年の1月16日だった。それが、彼女と「日記」との、いや作家プリーシヴィンとの出会いの始まりだった。

 「カーメンヌイ橋(モスト)で風に吹かれたら、ボリス・ドミートリエヴィチ〔ウヂーンツェフ〕のオーヴァーシューズがかちんかちんになって曲がらなくなり、靴からはずれてしまいました。それが歩道の敷石に当たって、まるで氷のかけらのような、厭な音を立てるのでした。わたしの足も次第に感覚がなくなってきました。でも、前を行くオーヴァーシューズの音はリズミカルなのです。彼に悪い気がして、自分だけ逃げ帰るなんて、とてもできません。……トレチヤコーフ美術館の真向かいに出現した新しい建物――それが〈作家の家〉であることも知らなかったわたしは、ただただ驚きました。まして、自分がそのうちそこへ通うことになるなんて、ついこのあいだまで、思ってもいませんでした」

 「『あなたにやってもらうのは、こういったことですが……』と、ノートがぎっしり詰まった事務机の抽斗をひっぱり出しながら、プリーシヴィンが言いました。『これはわたしの生活記録です。読むのはあなたが最初ということになります』――『でも、どうして見ず知らずの人間を信用なさるのでしょう?』思わず、わたしは訊いてしまいました。プリーシヴィンはじっと待ち受けるように、こちらを見ています。わたしはすっかり気圧(けお)されてしまい、こんなことまで言ってのけました。『そういう仕事をする、つまり、それをお引き受けする以上、わたしたちはお友だちにならなくてはいけませんわ』――『友情の話はさておいて、ともかく仕事の話をしましょう』。プリーシヴィンの言い方はいかにもあっさりしていて、情け容赦ありません。そのあと、わたしたちはコニャックを入れてお茶を飲みました。それで暖まろうとしたのですが、どうにもなりません。いっこうに悪寒が去らないのです。わたしは迂闊にも詩人のクリューエフ(1887-1937)との自分の出会いを話題にしてしまいました。『わたしは詩のことはわかりません。本物の散文というのははるかに詩的なものですからね。たとえば、わたしの作品……』――プリーシヴィンはずばり言ってのけます。そのとき、ふと、わたしは思いました――この人はわざとこんなふうに勿体ぶっているのではないか、ひと皮剥いだら、まったく別の人間が出てくるかも。でも、それは見えてきませんでした。こちらは少しも気が休まりません。三日したら仕事を始めると、わたしは約束しました」

 初め、仕事は必ずしもしっくりいかない。ロシア文学の教師もしたことのある彼女は、それまでプリーシヴィンの作品をあまり読んでいなかった。「人間の目をした鹿……大波が打ち寄せるたびに、生きた人間の心臓のように震える石の心……空に浮かぶ白鳥の胸そっくりの白い雲……思い出せたのはそれだけでした。もうこれ以上、この作家のことは何も知りません」。この作家についての彼女の知識は、極東の密林を舞台に繰り広げられる不思議な精神世界を描いた中編『チョウセンニンジン』(1932)と、連作エッセイ『自然の暦』(邦訳『ロシアの自然誌』)の、おそらく「春」の出だしの一部だけだった。  ともあれ、出会いが、踏み出された最初の一歩――作家にとっても彼女にとっても大きな人生の転機であったことは間違いない。ときにプリーシヴィン66歳、ワレーリヤ・ドミートリエヴナ40歳だった。

 

仕事

 「わたしが独り、タイプライターと原稿の山を前にしていると、アクシューシャ(アリーシャ)が、盆の上にお茶をのせて恭しく差し出しました。でも、それで儀式が終わったわけではありません。傍らに腰をかけます。わたしは彼女の打ち明け話を聞かなくてはならないのです。彼女は田舎に住んでいたのですが、たいそう困窮し、ちょうどプリーシヴィンが家族と離れてモスクワに住むことを思いついたとき、呼び寄せられました。そういうわけで、彼女は作家の世話係なのです。『まるでね、小さい子どもみたいですよ。あの人(プリーシヴィンのこと)はどんな人にもあけっぴろげ、心もお金もね。ワーシャ――あたしのことをこう呼ぶんです――、干草を少し持って来てくれ、あそこにあるから! それはね、お金を持って来てくれということなの。鍵を掛けることも、数えることもしないの。もちろん、あたしは1コペイカだって盗りやしませんよ。あの人もあたしも、こんな暮らしに満足してますからね……』。その晩、わたしはいろいろなことを知って、なんだかひどく気詰まりでした……マホガニーやアンピールや牧羊神(パーン)の後ろに、何が隠れているやら、さっぱりわかったものではありません!」

 ちょうどこのころ、プリーシヴィンは次男のペーチャと猟にでかける準備をしていた。ペーチャという人物は、ワレーリヤ・ドミートリエヴナには、これまで知ることのなかった、まったく新しいタイプの人間のように思われた。ちょっとそそっかしくて、身なりなど少しも気にしない、気立てのいいざっくばらんな性格の持ち主だった。前々年の春まだきには、父子でヴォルガへ旅をしている。それについても、その後次第に深まっていくワレーリヤ・ドミートリエヴナと作家の関係についても、今はあまり立ち入らない。

 「日記」の仕事は、断続的に、しかし確実に進んでいった。ワレーリヤ・ドミートリエヴナが非常に真面目で信頼できる、気性のしっかりした女性であることが、プリーシヴィンにもわかってきた。それにしても、そんな請負仕事が生涯の仕事になろうとは思ってもみなかった。

 作家の生前に公刊された「日記」はない。日記は本音、この体制下でどうして本音を人目にさらせよう。瑣末な日々の暮らしのメモ、収支計算、愚痴、懴悔、正論、絡み合った人間関係から性生活まで、洗いざらい吐露して、なおそれ以上にこれは創造の泉――「ベレンヂェーイの井戸」なのである。

 プリーシヴィンにおける「創造の源泉」の意。

 しかし、プリーシヴィンの死後、「日記」は人目にさらされた。出会ったその年に作家と結婚し、54年に未亡人となったワレーリヤ・ドミートリエヴナが、単行本として出版したのである。ちなみに、以前からわたしの手元にあったのは、プリーシヴィンの8巻選集(文学出版所・1983)のうちの「日記」とプラウダ出版所の「日記」(1990)だけだが、それだけでないこともわかっている。たとえば、映画監督のアンドレイ・タルコーフスキイ(1932-1986)が自分の日記の中で言及しているプリーシヴィンの「日記」

 ソ連時代、何種類かの日記が単行本として世に出ているが、いずれも当局の目をはばかったもの(自己検閲)である。タルコーフスキイが読んだプリーシヴィンの「日記」については未詳。

 「日記」はプリーシヴィンのさまざまな作品を生んできた。そのままの形で公刊されることはなかったものの、紹介はされている。エッセイの『森のしずく』(1940)も『茸の話』(1951)も、多くは「日記」を読み返す作業中に、ひょいとページとページのあいだから飛び立った小鳥たちだった。

 邦訳あり、『裸の春』所収・群像社刊。

 木箱に収められた日記が1905年から54年までの50年の日記であると書いたが、これから取り上げるのは、(おそらく)最初で最後となるだろう本格的な日記――〈モスクワの労働者〉出版社(1991)のものである。これまで出た一巻本の「日記」は、すべて1905年からのものであるのに、なぜこの版だけが1914年以降の日記から出発したのか、それについて、テキストの校訂責任者であるリーリャ・リャザーノワは、こう記している。「日記らしきものをつけ始めたのは、確かに1905年だが、この年から1913年までのものは、年月日が特定できず(日付がないなど)、ほとんどばらばらの状態である」。さらに、1916年は断片(7ページ半)であり、1919年(すなわちボリシェヴィキ革命の翌々年)の分の、いわゆる「エレーツ日記」――故郷の近くのエレーツ(オリョール県)に避難・疎開していた時分の――は紛失している、と。ちなみに、リーリャ・リャザーノワは、長年、ワレーリヤ・ドミートリエヴナの助手を務めた人である。

 日記帳として使用された、大小さまざまなノートの筆跡はすべて照合されており、作家本人のものであると鑑定された。編者は、そのうち、同一事項を繰り返し記述している箇所、бытовой характер(瑣末にすぎるもの、赤裸々?)、家計上の数字、他人の住所などを適宜に処理したと断っている。

 

1914年1月1日 

 ノーヴゴロド近郊のペソチキ村。  自分の運命、ワルワーラ・イズマルコーワの年を取った顔が夢に出てきた。辛いが、わたしは手を差し延べる。そして、こう言った――「わかった、さあ一緒に行こう」。夢覚めて新年。一日中苦しむ。耐え難いトスカ(憂愁)に襲われる。翌日、夢と新年のトスカの意味がわかった。「運命に逆らってはならないのだ……」

 初恋の人。留学中にパリで知り合い、リュクサンブール公園で別れた。プリーシヴィンの永遠の人。夢と日記に最後まで出続ける。

 幸福のすぐ近くまで行きながら、すぐにも手が届くというのに、次の瞬間、幸福の代わりに、それ在るところへぐさりとナイフが突き刺さる。  幾年かが過ぎて、わたしはその痛みにも慣れた。それは和解したというのではなく、別なふうにこの世のいっさいを理解しだしたということ。以前のように「広がり」ではなく「深さ」において。わたしにとって、世界全体が変わった。人びとは全き存在としてわたしの方へ近づいてくる。

 「旧きわがインテリゲント〔知識人〕の心にとって、あれほど懐かしいロシア農民の共同体精神は、かつて農奴をひとつに結んでいた十字架から生じたものである」  「十字架は、自由を奪われた人間にとって、光であり自由の最上の贈り物である」  「この光を放射したのは、かつてのロシア農民の顔(лик――イコンの顔また聖者天使の群れ)であり、この光によって、以前の民衆愛(ナロドリュービエ)は生きていた。そして光は、過ぎしわれらの歴史の中に保たれている」

 

1月6日

 冬の夜明け。日は出かかるが、ついに昇らず。靄がすべてを覆い尽くした。豪雪。出口なし。凄まじいその威力。こんなのは後にも先にも経験がない。  「家主と、風呂小屋(バーニャ)の裏の一本の小さな槲の木を見ようとしたが、道を挟んで10サージェンしかないのに、そこまですら行き着けずに戻ってきた。連日の吹雪。家から一歩も出られないようになるかも。目を覚ますと、真っ暗で、窓が雪ですべて塞がれている。村を取り巻く難攻不落の荒野。小径、垣、畦が縦横にめぐる馴染みの場所や野原が、まるでたった今この世に出現した(造り出された)かのよう。ウサギや獣の足跡だけがてんてんと、人間の足など、まったく、どこもに見当たらない。
 冬、厳しい寒波にさらされたロシアの農民ほど、哀れで、衰弱した、無力な存在はない。ロシアの馬鹿でかい、しかし情けないほど頼りない煖炉=竈(ペーチ)。  マロース以上にヒトは一酸化炭素中毒で死ぬ。その構造上の問題。助かり方――往来(おもて)に飛び出して、2時間ほど夜空の星を数え続ける。そのとき、雪の上にひざまづいて、月と12の禿頭(はげあたま)を求める。《明るい月よ、12の禿よ、マロースを打ち砕け!》。これはアルハーンゲリスク地方の迷信だ。寒さの厳しい日、おもてに出て、通行人の中から12人の禿頭の男を数えれば、最後の(12人目の)その男の鼻にマロースは乗り移るらしい。
 わが国に技術革命(鋳鉄製のストーヴ)が起こって、ガス中毒がなくなった。もう中毒は起こらない。それで捜してみたが、なかなか見つからない。アヴドーチヤが煖炉に火を入れ、娘のリーザ(12歳)をよこして、煙突を閉めさせた。結果、自分もリーザもガス中毒だ。
 「爺さん、どうやらわたしはその、あの世に行ってきたようだよ。でも、何でもない……」みなが笑う。なぜ笑うんだ。みなが言う――「そうさ、死ぬのはそんなに怖くねえ。中毒死なんて楽なもんだ」。クリューコフ爺さん――「生きてゆくのは大変だがな、死ぬのは楽だよ。死んだら、もう苦しまなくて済むんだし」。この老人は、教育ある人間と見れば、議論を吹っかけてくる。何にせよ、相手との共通点を見いだすのが目的なのである。「死は楽なのに、じゃ、なんで恐怖が?」――「恐怖は人間どものせいさ。熱に浮かされ、気を失いかけながら、何かぶつぶつ呟けば、それだけでまわりの者は恐怖に駆られる。それはそれでいい。恐怖ってものは、みんなを従順にさせる。屈した人間は、その屈した目で他人を見るのさ、そいつがどうするかを、な」。   「われわれはみなばらばらである。獣のように穴に隠れる。恐怖がうろつきまわると、他人を見る……恐怖、こいつがみんなの共通点。歓び、家族の中、森のモミの木の下、大雪の底、どこか雪に埋もれた百姓家にいる自分。歓び、夢、その共通点のそばに自分もいると信じて……」

 「わがロシア。ストーヴを何度も焚くが、また冷えてしまう小屋。熱と寒さと、それで中庸(中間)というものがない。雪に埋もれたわがロシアそのものだ」

 哲学者のカントが出てくる……ちぎれ雲のあいだを明るい月が飛ぶ。膝まで雪。老婆が祈っていた。「明るい月よ、12人の禿頭よ、マロースを打ち砕きたまえ!」。老婆。月に祈り、それから明かりを手に暗い部屋の隅々をめぐって、白い小さな十字架を置いた。

 シベリア出の養蜂業者のアレクセイ・エフィーモヴィチが語る――「アルタイで巣枠を用いた養蜂術がいかにして始まったか」。アルタイはズメイノゴールスク郡のチョールヌィ・イルトゥィシのどこか。ベロヴォーヂエ(白水境)。「そこでは17世紀、白水境を求めた古儀式派のグリゴーリエフ某が、皇室領に住んで、養蜂と農耕を始めた。この時代、皇室領は書類上のものにすぎず、アルタイでは誰でも耕作できたのだ。アレクサンドル三世のころ、グリゴーリエフ家の家族は48名、養蜂場も大規模なものになっていた。一家の主がツァーリにアルタイの蜜を献上しようとペテルブルグへ上京。ほぼ1年待って、この旧教徒は謁見を許された。場所はカザン寺院の近く。ツァーリが長時間、アルタイと養蜂業について下問。ところで、間もなく、そのグリゴーリエフ一家に災難が降りかかった。皇室領が使えなくなり、養蜂場が役人どもに取り上げられてしまったのだ。再びペテルブルグへ。陛下に戴いた署名入りの本を手に。当然ながら、面会は許されなかった。そこで天才的ひらめき……先帝の后にとりなしてもらおう。皇太后がギリシアへ行かれたと聞いて、さっそく旧教徒のカフタンを着、手縫いのシベリアふうの長靴を履くと、グリゴーリエフもギリシアへ向かった。彼の地で面会に成功する。

* なぜこんなメモが延々と記されるのかと首を捻られる向きもあるだろうが――のっけから分離派信徒のアルタイの蜂蜜などが出てくる――、ひとつ長い目で見ていただきたい。最後に参考までに、もう2人の校訂者、ヤーナ・グリーシナとウラヂーミル・グリーシンによる「1914年のライトモティーフ」も記しておく。女性性については、若きプリーシヴィンの最初の翻訳がアウグスト・ベーベルの『婦人論』(マルクス主義者として逮捕・投獄される以前の仕事)であったこととも、それは深くかかわっている。

     
  • 女性運動
  •  
  • ヴィーナス
  •  
  • ゲーテとゴーゴリの形象
  •  
  • ローザノフのイデア

   ロシア精神の女性性(женственность)――レゲンダの創造――芸術の個性そのものにおける女性性

      
  1. エカチェリーナの記念碑
  2.    
  3. 女性革命家の形象
  4.    
  5. 〈前衛的〉女性像
  6.    
  7. 家族、結婚、母性(материнство)
  8.  
  9. キリスト教の「純潔(девство)」の問題
  10.    
  11. 個性、ロシア民衆の集合的精神の女性性のイデアと創作上の女性原理のイデア
 1914の日記の①は「女性運動」であり、この年の8月からのテーマは「戦争」である。「この戦争(第一次世界大戦)に敗れれば、恐ろしい革命が起こる」と書く。8月時点での予言――「歴史の継承の可能性は唯ひとつ、勝利にある」とプリーシヴィンは思っている。
 1915年――「これは最後の審判の開始だ」

 二つの重要なテーマが登場する。①父親殺し――インテリゲンツィア……父なるもの、日々の暮らし(быт)を殺そうとしている。②ロシアの宗教精神が地上の楽園についての神話の方へ動こうとしている(この戦争の結果として、何かしら地上の宗教であるかもしれない)。戦争は男の大義(дело)のシンボル。戦争に本当の女性は存在しない。戦争と出産の比較検討。両者ともに、新しい未明の生命の創造と結びついているという点において。

 この日記は「民衆の集合的精神と創造的個性の直感、すなわち民衆の共有精神と創造する個性の直感力であり、重要なのは、作家としてプリーシヴィンがそれを著作しようとするのではなく、民話(スカースカ)あるいは神話(ミーフ)の形において、民衆の集合的精神を具現せんとしている(ヤーナ・グリーシナ、ウラヂーミル・グリーシン)」点にある。

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