リレーエッセイ

第46回 - 2002.05.17

社会主義通貨と地域通貨

松家 仁

1、『資本論』に学ぶ

 学生時代、何を隠そう私もかなりマルクス主義を勉強しました。これまでの生涯でもっともていねいに読んだ本といえば、そのころ読んだマルクスの『資本論』だと思います。第三巻まで大学3年の半年をかけて『資本論』を長谷部文雄訳+原書(これはわからないときに備えて)で読んでいったわけです。それから3年後の1991年初めてポーランドに行ったときに、ふっと『資本論』の冒頭の数節がリアリティをもって思い出されることがありました。社会主義が東欧で倒れてまだ混乱さめやらないころに東欧に行って、『資本論』が正しいと確信するということがありえるのか、と疑問を持つ方もあるかもしれませんが、実際そういう経験をしたわけでして、今回はその話をしてみたいと思います。

 『資本論』は、その価値形態論を通じて、貨幣の出現を次のような方法で説明します。まず一つの商品A(例えば20エレのリンネル)の価値が、もう一つの商品B(例えば1着の上着)の一定量の使用価値によって表現される「単純な価値形態」の段階があります。ここではリンネルに含まれている、有用な抽象的人間労働が、上着という具体的な商品の使用価値で表現できるということを説明しています。ついで、一つの商品の価値が複数の商品の様々な量の使用価値によって表される「展開された相対的価値形態」の段階では、特定の商品の価値がさまざまな商品の使用価値によって表現できるということを説明します。

 一つの商品の価値のみならず、さまざまな商品の価値も、一つの商品の使用価値で表現できることから、ここで図式を逆転させ、さまざまな商品が一つの商品の使用価値によって測られることができます(「一般的価値形態」)。この形態では、商品世界から分離された特定の一つの商品が選び出されることによって、価値対象性が社会的に測られます。そしてこの選出された商品が、リンネルなどといったものから金に変わることによって貨幣が出現するわけです。
(この部分の参考文献:常盤他著『経済原論』有斐閣、マルクス『資本論』新日本出版社)

 こうして様々な使用価値を持つ商品から、価値尺度となりうる一つの商品が貨幣として出現したというわけです。

2、社会主義経済とマルクス

 さて、かつての社会主義では、どうだったのでしょうか。資本が利潤を追求しない社会では、使用価値目的でのみ商品が生産されます。それぞれの商品は、それぞれの使用価値のために生産され、その分配を効率的に行う計算手段として貨幣が利用されるという建前になっていました。

 しかし、使用価値とは主観的なものでしかありません。喫煙者にとっての煙草は使用価値がありますが、他の人にとっては負の財でしかありません。また、子供にとっての牛乳や大人にとっての酒類など、使用価値同士を互いに測ることは困難です。

 さらに、利潤目的でない生産では、どうしても生産が滞りがちになってしまいます。労働者を生産に駆り立てるために、生産ノルマ超過のための「スタハノフ運動」などといった運動が行われましたが、それには限界があります。となると一人の人がたくさんの商品を手に入れてしまわないように、商品の購入に制限を行う必要が出てきます。例えば職場の発行する住宅手帳などに預金を積み立てないと住宅が購入できないとか、一人が購入できる自動車は一台だけに限り、購入した人の身分証明書に判を押す規則を作ったり、食料品や煙草・砂糖などに対して切符制度を設けたりするのです(もしそれをしないとインフレになってしまいます)。

 それゆえ、物々交換が社会で広く行われることになりました。煙草を吸わない人は、煙草の配給切符を他者に提供することができます。例えば煙草を吸わないAさんがテレビをBさんに修理してもらう代わりに、自分に配給された煙草切符をBさんに提供するとか、そういう「取引」が社会主義では日常的に行われていました。

 つまり社会主義体制では、貨幣が貨幣としての役割を失ってしまうのです。貨幣とは好きな使用価値といかなるときにでも交換できるという本質を持っています。しかし商品購入のための配給切符がないと好きな商品が購入できないとなれば、貨幣は貨幣としての役割を失ってしまいます。つまり社会主義の貨幣とは「切符と併せて商品と交換できるクーポン券」としての使用価値を持つ・多くの商品の内の一つという地位に甘んずることになってしまうのです。

*写真で示したのは、共産主義時代のポーランド紙幣の一部です(現在は無効なのでご心配なく)。上の段は正規の紙幣の一部で、「ポーランド国立銀行券は、ポーランドにおける法的支払手段である」と書いてあります。しかし共産主義時代の民衆はこの札を下のように折り曲げて、「ポーランド国立銀行券は、ポーランドではniczym=なんでもない」などといって遊んでいました。

 さて、ここで『資本論』に話を戻しましょう。『資本論』の記述によれば、物々交換によってそれぞれの商品の価値が、さまざまな商品の使用価値によって相対的にしかはかられない状態を「展開された相対的価値形態」と呼びます。そしてマルクスは、このような状態には欠陥があるといっているわけです(新日本出版社『資本論』第一巻 109-110頁)。

 つまり、社会主義国での闇市場価格体系は、マルクスによれば次のような図式で表される不完全な状態にあったということです。

 20エレのリンネル=肉10キロ=肉切符30枚=ポーランド通貨4000ズウォティ=自動車修理一回分=酢150本=牛乳20本=10ドルなどなど 

 では、この欠陥を取り除くにはどうしたらよいかをマルクスに聞くならば、このうちの特定の一商品を取り出し、「一般的価値形態」における価値を表現する商品の側におくべきだということになります。社会主義国の通貨は、すでに述べたようにすべての商品といつでも交換できるというわけではないので、この商品にはなりえません。そして社会主義国でこの役割を担う商品になったのは――ドルだったわけです。

 つまり闇市場では次のようになります。

 20エレのリンネル
 肉10キロ
 肉切符30枚
 ポーランド通貨4000ズウォティ = 10ドル 
 自動車修理一回分
 酢150本
 牛乳20本
(註:ここでは、実際にドルと交換される必要はない。ただ価値尺度としてドルが商品間の闇交換レート計算に利用されれば十分である)

 ドルは外貨商店に行けばいつでも好きなときに好きな使用価値に変えられます。だとすれば、ドルが「商品世界の共同事業」を行う唯一の特殊な商品として析出されるのは、当然です。つまり社会主義国で唯一の通貨がドルになってしまったのは、実は『資本論』どおりに事態が進んでしまったことに他ならないのです。

 そしてドルが他のすべての商品の価値尺度となれば、社会主義国の価格体系はすべてドルによって換算し直されることになり、社会主義国の政策的な価格政策(つまり独自の相対価格体系)は、闇市場によって破壊されてしまいます。つまり、社会主義的価格体系の弱者保護という「歪み」が、闇ドルによって資本主義の価格体系へと「是正」されてしまうのです。

 社会主義的な政策的価格体系  闇市場 
 酢75本=
 2000ズウォティ=
 牛乳50本=
 肉50キロ=
 5ドル
 5ドル
 25ドル
 50ドル

 左側の等式は、公定価格での等式を表し、他方右側は闇市場での価格を表します。となると、この体系では左側の公的な価格体系では「等価」であるが、闇では最も有利な商品に公的な価格体系で交換していけば、まったく労することなく酢75本(闇で5ドル)が闇で50ドルの価値を持ち交換に有利な肉50キロに化けるわけです。

 となれば、社会主義体制ではひどい乱費と激しい物不足が共存する価格体系になるのは必然です。とくにドル価格体系に対して弱者保護の名目で価格が安価に設定された商品を、公的な交換を通して獲得すればするほど(闇では)得になるということです。

 市場経済では、このような場合、交換に有利な商品の供給が増加して、それによって闇市場での食肉価格が下がることによってこのような問題は是正されます。計画経済は外部の価格体系とは関係なく、「必要に応じて」しか生産しません。さらに弱者保護という建前は、社会主義的政策価格を変更することを許しません。となれば、この体系では社会主義市場で、酢とズウォティ通貨ばかりが余って、他方この事例での肉は交換に有利だという理由で、買いだめが起こり(かりに、必要に応じて生産されていたとしても)常に不足することになります。

3、「わらしべ長者」が成り立つ社会は豊かにならない

 もちろんあらゆる経済学のモデルがそうであるように、上のモデルはちょっと抽象化しすぎています。社会主義体制は、経済の「孤立国」化をはかり、国内の価格体系を政策的に維持しようとするし、また闇市場で特定の商品の供給が増加することで闇でのドル建て交換価格が低下することもありえました。

 しかし経済学原理的な問題として、このような問題がありうることについては皆さんも納得いただけたことと存じます。ドル建て交換価格=闇価格では高価であるにもかかわらず、弱者保護のために公定価格では安価に設定されている商品は、『資本論』によれば社会主義体制ではつねに不足することになります。

 では、誰が公的な価格体系を有利に利用して闇ドルで計算される最大の交換価値を集めることができるのでしょう。公的な価格体系で自由に商品を交換できる者、そしてどの商品が一番外貨で有利な商品になるかを知り得た者が、闇での交換価値をもっとも上手に集めることができる人です。となれば、情報をいち早く入手できる政府の権力者とそれに結びついた者が一番有利になります。つまり弱者保護政策が、現実には強者保護政策として機能してしまうのです。

 そしてこのような体制では、強者は労働・生産を通じて富を得ようとはしません。そうしなくても「わらしべ長者」のように交換だけを通じて富が得られるのですから(社会主義国通貨も交換できる他の商品と同じ商品にすぎないのです)、必然的にそうなります。となるとさらに生産は沈滞し、社会はいつまでたっても豊かにはならないわけです(これもマルクスのいうとおりです)。

4、1917年にはわかっていなければならなかったこと

 マルクスの『資本論』が出てちょうど50年後、マルクスの祖国では第一次大戦を経験していました。そこでは上に述べた社会主義体制とほぼ同じ実験が行われました。つまり、通貨をクーポン券化し、価格体系を恣意的に操作すれば理想の経済体制が確立できるという理念をドイツの軍国主義者が社会主義者とともにドイツ帝国で実施してみたのです。これが、いわゆる戦時統制経済です(私の本『統制経済と食糧問題』(成文社刊)ではもっと詳しく書いてあります)。

 そこでは、情報を早く手に入れ有利な交換をした者が圧倒的に得をする社会ができあがりました。具体的には、最高価格のないメロンといった商品作物を生産した農家、マイナーな商品の間で延々と物々交換を行って有利な商品に交換して売った商人、価格統制の強化を事前に知って売り逃げした商人、この手のたぐいの人間が、ほとんど何も生産せずにぼろもうけをしたわけです。そして当時の民衆は、このような人為的な制度、とりわけ恣意的な価格体系や官僚主義が厄災をもたらすばかりであるということを十分認識されられてしまいました。

 さらに、当時中欧・東欧で暮らしていた行政の末端の役人たちも、このことを肌身に感じていました。ある高官は、「命令が多くなればなるほど、[命令の]実施と実施の統制は難しくなる」(『統制経済と食糧問題』24頁)と新聞に書き、また別の役人は、「(飼料を節約するために食肉の値段を半分にするなんて)まったくの学問的フィクションだ」と報告書で断言してしまいます(123頁)。

 こうした怒りを背景に、食糧暴動はそれが体制に向かった場合には革命あるいは独立への契機となりますが、体制を疑うことを知らない素朴な人たちにとっては、反抗の矛先は体制以外のところに向かいます。情報を集め上手いことをやった者は誰か、となれば特定商人やユダヤ民族などの少数民族へと庶民の暴動は向かっていくことになってしまいます。

5、地域通貨

 さて現在、地域通貨(エコマネー)というのが流行しています。わたしにはこれがどうしても社会主義国の「通貨」のように見えるのですが、どうでしょうか?

 地域通貨を推進している人たちは、これは現行通貨(リアルマネー)とは交換しないといっています。しかし社会主義国の通貨も、原則的にはドルとは交換できませんでした。交換できない通貨であっても、闇での商品交換を通じてリアルマネーで価値が表現されてしまうことは、上述のようなマルクスの分析からいえば防ぎようのないことといえます。つまり:

 地域通貨の価格体系  あってはならない闇市場 
 地域通貨x単位=
 子守1時間=
 運転請負1時間=
 英語の翻訳1時間=
 500円
 1000円
 1500円
 3000円

 地域通貨の価格体系で、労働を評価する上で、負担する時間という社会的公正を考えて上の左の交換比率のように定めたとしましょう。しかしその場合、世間の相場で一番有利な英語の翻訳が酷使され、他方子守は暇になります。なぜならば円で人を雇うことと比較して、自分に有利な通貨を人々は用いたがるからです。

 人々の善意がある場合には、リアルマネー換算で特定の社会層に不利になるようなレートで交換体系を設置しても当初はうまくいくはずです(つまり共同体内ではリアルマネーの介在は発生しない)。しかし、長期的にはどうでしょうか?

 地域通貨社会が広がれば広がるほど参加者の善意・献身は期待できなくなり、またリアルマネーとの闇取引の危険性は拡大します。酷使される立場の人間は抗議し、自分に有利な相対価格を要求し始め、右側に示した同じ商品の円での相場の方に、地域通貨の価格体系は引きずられます。つまり、子守3時間=運転請負2時間=英語の通訳1時間というレートへと移行せざるを得なくなります。言い換えれば、単純労働者が長時間働かされるという、資本主義社会と同じ原理が勝利することになります。

 そしてリアルマネーとの交換が頻繁になればなるほど、エコマネーの使用価値は薄れていきます。共同体内で、共同体間とは異なった価格体系で取引できるという通貨の利点が薄れるのですから、これは当然です。つまり地域通貨インフレのおそれがでてくるわけです。そして社会主義国の通貨がいずれも極端なインフレで終わったように、地域通貨をため込んだ人間が一番損をすることになるという可能性が、特に地域通貨に十分な裏付けがない現在きわめて高いのです。

*写真は、インフレ時代の末期のポーランド紙幣の様子です。ごらんの通り、ゼロの数でうんざりです。

6、スターリンによる問題提起

 さて、今までいったことをまとめれば、『資本論』の価値法則自体が、我々の知っている弱者に優しい社会主義体制に敵対しているということになります。つまり、この資本主義特有の法則とされている論理が社会主義でも機能してしまい、社会主義体制を破壊するということです。

 これは実に古典的な命題、つまり社会主義体制においても価値法則はなりたつか、という1950年代の論争へと私たちを呼び戻します。スターリンは、『ソ連邦における社会主義の経済的諸問題』という著作のなかでこの問題を取り上げ、社会主義体制においても価値法則は社会主義建設に利用できると主張しました。彼は、価値法則を社会主義経済政策という檻の中に封じ込めることができると考えましたが、現実にはそれは不可能だったのです。

 さて、これ以上の言及となると精緻な資料的検討、学説史的なフォロー、そして理論的な考察が必要でしょうから、今回はここまでということにしましょう。このエッセイは、あくまで思考実験です。


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