リレーエッセイ

第44回 - 2001.12.01

ヴェトナム人・中国人とヨーロッパ

松家 仁

1、中国人とプロイセン領ポーランド

 先月成文社から出た本(『統制経済と食糧問題』)の資料を集める過程で、筆者はポズナン居住の中国人に関する史料を見つけました。本書についてその著者が述べるのに、遠回りになるのですがまず中国人の話からはじめることにしましょう。この史料は、ポーランドが分割されていた時代の旧プロイセン領のもので20世紀初頭の中国人住民の住民登録に関するものです。内容的には、当時ポズナンに住んでいた中国人がどこの出身で、どのような職業を営み、どのような家族構成だったのか、といったことについての役所の文書です。
(Akta miasta Poznania: 10884 /Akta dotyczace Chinczykow w Poznaniu/ 1912-1914.)

 この史料を閲覧はしたのですが、メモをとっていないので細かいことは記憶に頼るのですが、それを見る限り1910年代前半に、数家族の中国人がポズナンに居住していたこと。職業は雑貨販売といったものであること、出身地は旧ドイツ領中国植民地(青島など)であることなどが、わかります。 この中国人家族については、若干の回想録(これも手元にないので正確な引用ができないのですが)が、別に記録を残しています。当時、ポズナン社会において東洋人がきわめて珍しかったので、彼らが町に出てくると子供がそのあとをついて歩いて大変だったことなどがそこには記録されています。 この中国人家族についてさらに現地の友人に問い合わせたところ、1918年のポズナンでの民族蜂起でポーランド側に立って戦ったという伝説もあるようですが、この点についてはまだ調べていません。

 これは現実に存在した中国人家族の問題なのですが、さらに中国人を大規模に「ポーゼン州」に移民させようという計画もあったようです。このことについても当時の史料に残されています。

 当時ドイツの東部とされていたプロイセン領ポーランドで、農業季節労働者の問題があったことはよく知られています。そこでもっぱら「導入」されていたのは、旧ロシア領ポーランドからの季節労働者だったのですが、この季節労働者の問題は、なかなか当局にとってはやっかいな問題だったわけです。つまり、ロシア領とポーランド領の間でポーランド人が移動し接触するというのは、治安対策上きわめて好ましくないのです。

 例えば、1905年の日露戦争をきっかけとした蜂起がロシア領ではあったわけですが、ロシアでの民族運動にドイツ「内部」のポーランド人が呼応する可能性というのが常にあったわけです。実際、19世紀の2回のロシア側での蜂起において、プロイセン領からポーランド人の義勇軍が参加して、その点について、ロシア当局は激しくプロイセン側に抗議しているはずです。

 またロシア領の社会主義色の強い活動家がプロイセン領に進入してきて、そこで民族運動を煽動する可能性もあったわけです。また、ロシア領の社会主義的な地下抵抗運動の拠点がプロイセン領内に作られたりするとやはり困るわけです。そこでよく知られているように1886年から90年代にかけて、季節労働者の入国管理の強化やロシア領からの入国者の追放などが行われたわけです。
(この点について、シロンスク=シュレジェンですでにプロイセンはかなり痛い目に遭っているわけです。つまり、ポーランド人民族運動家が1840年代以降、それまで民族意識の稀薄だったシロンスクに入り込んで民族運動を相当煽った結果、シロンスクまでポーランド民族運動が入り込んでしまったのですから……)

 他方、プロイセン東部の大土地所有にとって、ロシア領ポーランドからの低賃金労働者は、その経営維持に不可欠なものであったわけです。そこで彼らを完全に追放してしまうことは、ドイツ農業者の利害という面からはできかねたわけです。
(ちなみに、8月1日という農繁期に戦争が勃発したため、第一次大戦期の間ずっとポーランドからの季節労働者は、プロイセン領内に敵性労働者として抑留され酷使されてしまいます)。

 低賃金労働者は欲しいが、ポーランド人は困るというわけで、そこでアイディアとして浮上したのが、中国人「苦力」の「導入」というわけです。このような問題「解決」の方法としてほかの国では、例えばアメリカでは、西部建設に中国人労働者が盛んに「導入」されていました。中国人の低賃金労働がアメリカ西部の鉄道などの建設に果たした重要な役割については、ちゃんと正しくアメリカの歴史は評価していないようですが、とにかくそういう前例があったわけです。

 その前例を受けて、ドイツの大土地所有は、同じことを「ドイツ東部」で実践しようとしたわけです。もちろん、知っての通りこの計画は、「黄禍論」を唱えるヴィルヘルムII世のいる国でうまく進むはずはなかったのですが、この問題は「東ドイツ」(ドイツ民主共和国)で後にまったく異なる形で実現します。それはヴェトナム人労働者の導入という形でです。もしこの時代に中国人労働者「導入」が行われていたらどうなっていたのか推測するために、現代のドイツのやり方を検討してみることにしましょう。

2、ヴェトナム人と東ドイツ

 さて、1年ほど前、ベルリンでSommeralleeというタイトルのドイツ映画を見たことがあります。この映画は、70年ごろの東ベルリンの日常生活を批判的に、そしてOstalgie(Nostalgieをおちょくって出来たドイツ語の言葉で東に対するノスタルジーという意味を持つ)を誘うような映画です。その映画の中で、ヴェトナム人が出てきます。主人公が通う学校で、ヴェトナム民族との「共闘」が語られ、そしてヴェトナム人の若者が、東ベルリンの学校でアメリカ帝国主義に反対する講演を行うシーンが出てくるというわけです。

 ヴェトナム戦争下、ヴェトナムは、西側世界に対する東側世界の「正義」の証でした。つまり分断国家であった東ドイツ、つまり「ドイツ民主共和国」(DDR)にとって、ヴェトナムは、自分たちが「正しい」ということを宣伝する絶好の道具だったのです。そしてヴェトナム戦争終結後ヴェトナムから、当時労働者不足に悩んでいたDDRは、国家間協定に基づき労働者の供給を受けるという選択を取り(この労働者をDDR-Vertragsarbeiterと呼び、ヴェトナムのほか、アンゴラ・モザンビークから東ドイツは労働者を受け入れた)、そのためドイツ統一時に、多くのヴェトナム人が外国人労働者として滞在していました。

 ドイツ統一が行われ、最初の楽観的な日々が過ぎると、東ドイツは深刻な失業に悩まされることになり、そこで国内に滞在するヴェトナム人がやりだまに挙げられてしまいました。つまり、彼らの存在を取り除けば東ドイツの失業率は引き下げることができるということになり、そしてドイツからヴェトナム人を追放する政策が、統一ドイツによってとられることになってしまったのです。

 かつて日本のテレビ(NHK)でこのヴェトナム人労働者追放についての番組を見たのですが、旧東ドイツ地域における非合法滞在のヴェトナム人取締りのやり方は、まったく第二次大戦下のワルシャワにおけるワパンカ(街頭からの強制連行)を思い起こされるやりかたで行われているようです。警察官が密告を頼りにヴェトナム人の滞在する住居に押しかけ、身分証明書を確認した上で拘束するというやり方がとられていたようです。

 しかしヴェトナム人の立場からすれば、これはとんでもないことです。ヴェトナムは非常に貧しい国です。その貧しい国から国家協定に基づいて東ドイツへと移住し、ヨーロッパの高い生活水準を知りそれに慣れてきたところで、ドイツが統一したという理由でいきなり追放されるというのですから、こんなひどい話はないと思われます。しかし統一ドイツはヴェトナムに対して、経済援助と引き換えにヴェトナム人を国外追放するという措置をとったのです。
(例えば1996年のBerliner Zeitungは、飛行機で「不法滞在」のヴェトナム人が追放されたことを伝えています:http://www.berlinonline.de/wissen/berliner_zeitung/archiv/1996/0918/politik/0163/index.html

 東ドイツに滞在するヴェトナム人は、そこで選択を迫られることになりました。警察の目を逃れてドイツで不法滞在するか、あるいは故国に帰って貧困な生活に逆戻りするか、です。いずれも非常につらいことです。そこで、第3の選択肢として挙がったのが、他のヨーロッパの国に滞在することであり、そしてポーランドが絶好の国として現れたのです。

 現在、ポーランドには多くのヴェトナム人が居住しています。ここで「多くの」というのにはわけがあります。だれも正確な居住者数を知らないのです(またチェコにも非常に多くのヴェトナム人が居住しているという話を聞いたことがあります)。ポーランドのある新聞記事によれば、推測として50万人という数が挙げられています。

 他方、最近(2001年5月)私が取材したところ(ワルシャワ大学図書館で知り合ったあるヴェトナム人女子高生−ちなみにとっても可愛い−の話によれば)、「50万なんてありえないわよ、せいぜいいって数万人じゃない?」とのことです。いずれにしても「多数」であることには変わりはないでしょう。

 ポーランドは元来外国人政策が非常に甘い国で、かつドイツのように豊かではないのでヴェトナム人をヴェトナムまで強制追放する資金がないのです。そこでポーランドは、ヴェトナム人の天国となったのです。彼らは、ポーランドがEUに入るまではとにかく我慢して、その間に偽装結婚やらなにやらで、ポーランドでの滞在条件を合法化し、そしてポーランドがEUに入った時には晴れてEUの合法居住者としてドイツなりフランスなりに移住することを狙っているのです。

 このドイツ起源のヴェトナム人のポーランド滞在については、私自身がその証人となるような経験をしています。1995年頃の話ですが、ポズナンの中心街でぼんやりとバスを待っていたら、目の前でいきなりドイツナンバーのトラックが停車して、そこから数人のヴェトナム人が降りてきたのです。彼らは、私をヴェトナム人だと思い、それで話しかけてきたわけです。最初にヴェトナム語でなにか私に質問し(私はヴェトナム語ができません)、私はそれに対してポーランド語で、「おれはヴェトナム人じゃないぞ」、と答えたが、彼らはわからない。そこで言語を英語に変えて、「俺は日本人だ、わからんぞ」、といったがそれも彼らはわからない。そこで車がドイツナンバーだということに気づいて、ドイツ語だったら通じるかもしれないと思い、ドイツ語で、「俺は日本人だが、なんか用か」と聞いたところ、やっと話が通じたのです。

 彼らはドイツ語で、「おれたちはヴェトナム人だが、ポーランドのこの町でヴェトナム人を探している。おまえはどこかヴェトナム人がいる場所を知らないか」と聞き、それに対して、私は「知っているが説明は難しい」と答え、「案内してやる」といったところ、「そうか、案内してくれるか、だったら車に乗れ」といわれ(危ないのは承知で)彼らの車に乗って、毎朝ヴェトナム人が市場を開いているところまで案内してあげたというわけです。

 その時はもう午後で、ヴェトナム人たちはおらず、私は「翌朝くれば必ずヴェトナム人がいるから、そいつらと話を付けろ」といってそれでその場を離れたのですが(ちなみにそのヴェトナム人たちは非常に礼儀正しい人たちであった)、彼らはおそらく翌日その市場に行って、その市場でポーランド滞在中のヴェトナム人たちとなんらかの「話を付けた」のでしょう。

 そのヴェトナム人市場なのですが、後にわかったことですが、私の東南アジア出身の友人が当時そこで働いていたようです。彼は、難民でありヴェトナム語のほか、ポーランド語、英語、ラオス語、カンボジア語ができるという秀才で、彼はその頃その語学の才を生かしてヴェトナム人市場で中国製衣類の販売をしていました。彼の話によると、1990年にポーランドが経済自由化を達成した直後、この手の商売は非常に儲かったのだそうです。彼自身も(政治難民として、たいてい非合法滞在者よりも滞在条件がより合法的であったためもあるのでしょうが……)、ヴェトナム人市場で相当儲けたようで、本人が言うには車も買えたし非常にいい暮らしができるだけの利益が出たのだそうです。

 しかし、それもその数年だけでその後あまり儲からなくなっているのだそうです。彼は2000年まで市場で土日にアルバイトをしていたのですが、ほとんど利益が出ないそうです。その理由は簡単で、経済が安定化してくるにつれて西側の巨大流通資本(カルフールだけではなく、Geantであるとか、Makroであるとかそういった西欧資本)がポーランドに進出してきて、安価な衣類を大量に販売し始めたため、ヴェトナム人の市場はあまり儲からなくなってきているのです。

photo2  そこでヴェトナム人たちは、衣類販売からアジア・レストラン経営へとその経済活動の軸足を移しました。ここではワルシャワのこういったヴェトナム人経営のアジア・レストランの写真を紹介しておきます(2001年8月筆者撮影)。このアジア・レストランは、ヴェトナム人特有の勤勉さもあってか、あるいは税金や社会保障費をポーランド人のように払わなくてもよいという利点を利用したこともあってか、大成功を収めたわけです。

 しかし、よい時代は常に長く続くものではありません。ここでも西ヨーロッパの問題が出てきます。ポーランドがEU加盟候補国になるにあたって、EUがつけた条件のひとつに入国管理をEU並に厳しく制限することが入っていました。EUは東欧の労働者に対する労働市場開放に対しても及び腰であるのですが、さらにもっと東の国から、具体的にはヴェトナム人、そして旧ソ連諸国民のEUへの流入を非常に恐れており、そのためポーランドの東側国境がEUの不法労働者への抜け道にならないようにポーランドに対して要求したわけです。

 しかしポーランドにとって、旧ソ連からの低賃金労働者(農業労働者から家事手伝い、さらに売春婦も?)はポーランド経済にとって不可欠なものになりつつあるし、ベラルーシやウクライナ、リトアニアにはポーランド人少数民族が居住しており、彼らが本国へと出稼ぎに来られる仕組みを廃止することは、民族にとっては明らかに不利益となることです。しかしEUがこのような入国ならびに外国人管理の強化を求めたため、管理強化する方向へと政策を改めたわけです。そしてこの管理強化は、ポーランドに滞在するヴェトナム人に不利に作用してしまったわけです。それまで賄賂などを代償に警察からお目こぼしを受けていたヴェトナム人市場には、頻繁に警察による取締りが行われるようになり、また偽装結婚についても頻繁に摘発が行われるようになってきたのです。

3、「国民の歴史」を否定するために必要なこと

 さて、ここで出てくる国は、ドイツ・中国・ポーランドそしてヴェトナムです。これらをそれぞれの国の内部で考えるのではなく、問題をリンクさせて考えると、一国の研究者には見えてこなかった問題が見えてくるはずです。私の『統制経済と食糧問題』は、第一次大戦におけるポーランド西部を扱ったものですが、これもそのような試みのひとつです。そしてここで取り上げたように他にも、アジア人をヨーロッパ(そしてヨーロッパ史)がどう取り上げてきたのか(あるいはいかに軽視してきたのか)であるとか、ドイツの移民政策とポーランドの移民の状態が相互にリンクしていることなど、「国民の歴史」として歴史を考えないことにより、わかることがたくさんあるのです。

 これまで、日本の西洋史研究は、特定の国に留学してその国の言語・文化そして国民を知ることをその主な課題としてきたようです。例えばドイツ研究に関していえば、「ゲーテ・インスティトュート」なるドイツ国民文化の宣伝機関で優等生になるような人間が、その国の優れた研究者であるという発想です。しかしそれでよいのでしょうか? このような日本のヨーロッパ研究は、日本においてそれぞれの西欧諸国の「国民の歴史」を再生産してしまっている危険はないのでしょうか?
photo2 (ちなみに私は、「ゲーテ・インスティトュート」(以下GI)という組織にときどき疑問を感じることがあります。その根拠として一枚写真をお見せしておきます。この写真はポズナンの大学図書館内にあるGIの読書室です。しかしこのポズナンのGIは、『統制経済と食糧問題』で取り上げたように(第1章註18)20世紀初頭にドイツの税金でポーランド人をゲルマン化するために建設され(プロイセン版の「皇民化政策」)、ナチ時代にはReichsuniversitaet Posenの大学図書館として機能した建物の中にあるのです。他のすべての国がそれぞれ別個に読書室を設けているのにもかかわらず、ドイツだけが、かつて自分の国の税金で建てた建物に現在まったく同じ目的・機能を持った読書室を再設置しているのです。文化侵略の意図がないことを明白にするためには、この建物だけにはGIを設置してはいけないと考えるのが常識的な発想のはずであるのにもかかわらず、彼らは意地になって歴史を学んでいないのです!!)

 日本でも「国民の歴史」なる考え方が、日本の教科書問題などに及ぼしている否定的な影響については、もはや誰もが否定できないことと思います。そうだとすれば日本のヨーロッパ史研究でも、特定の語学の優等生が外国の「国民の歴史」を再現するような研究方法ではいけないはずです。むしろ複数の国民や国民内部の少数言語グループの史料や歴史研究の蓄積に基づき相互に比較・検討する研究姿勢が、必要になるのではないでしょうか?

 『統制経済と食糧問題』は、第一次大戦における戦時経済を例としてそういう研究のあり方が不可欠であることを示そうとしたささやかな試みです。ご一読いただければ幸いです。



HOME「バイコフと虎」シリーズ新刊・近刊書既刊書書評・紹介チャペック