リレーエッセイ

第34回 - 2000.11.13

レスコフ全集のこと

岩浅武久

 新しいレスコフ全集が出版されるという話を聞いたのは、もう5年も前のことである。1995年9月にオリョールで開かれた「レスコフ没後100周年記念国際学会」のおりにそんなニュースが伝えられた。話を聞くと、今度出る全集はこれまでになかった規模のもので、全30巻全集だとのこと。レスコフ研究者が一同に会した席でのこの話は、私にとっては嬉しい驚きだった。「まだここにいる誰も見ていないけれど、すでにその第1巻が出たという話もありますよ」という不思議な噂を通して、全集の編集に携わっている研究者たちと出版社との微妙な関係も伝わってきた。新しいレスコフ全集は、ブロックハウス・エフロン百科事典や全90巻トルストイ全集の復刻出版で知られている出版社TERRAから出版されるという。オリョールからモスクワに帰り、さらに数日を過ごした後、その嬉しいニュースを胸に帰国した。

 翌年の8月から9月にかけて、再びロシアを訪ねた。レスコフ全集のことも気がかりだったし、ゆっくりとモスクワの図書館で調べたいこともあった。モスクワの宿からオリョールのチューホワさん(前年にお世話になった、オリョール教育大学に勤務しているレスコフ研究者)に電話してみた。モスクワまで来たのだから、せめて電話で挨拶だけでもと思ったのだが、受話器を通して「ぜひオリョールにいらっしゃい!」と熱心に誘われた。前年のオリョールの記憶がよみがえり(それに私にとってオリョールは、1980年に最初に訪れた時からの懐かしい思い出がいっぱいにつまった土地だ)、またオリョールへ行くことにした。

photo1  オリョールではチューホワさんの自宅に泊めていただいた。旧知のレスコフ研究者たちとの再会、前年に会えなかったグローモフさんとの出会い、チューホワさんのご夫君に連れられて行ったダーチャのことなど、忘れられない旅になったが、このチューホワさんの家で、チューホワさんも入手したばかりだという新しいレスコフ全集第1巻を見ることができた。912頁からなる大著である。頁を繰ってみて驚いた。第1巻の「編集部より」の一文の冒頭にある(おそらく万感の思いをもって書かれたであろう)「この出版は、最初のレスコフ全集である」という言葉のとおり、まさしくこれは最初の「全集」である。
(写真右)=チューホワさんとグローモフさん(オリョールにて)

 レスコフ全集については、私も以前に調べたことがある。私がレスコフ研究に取りかかったときの唯一の支えであった国立文芸出版所版の全11巻レスコフ著作集(1958年)も、1902年から1903年にかけて出たマルクス版全36巻レスコフ全集も、「全集」からは程遠いものだった。もう20年以上も前のことだが、レスコフの初期の文筆活動を調べたときも、既刊の「全集」ではほとんど何ひとつ読むことが出来ず、ブイコフの作成した目録やシェステリコフの論文、ブーフシュタブの文献案内書などを手がかりに、19世紀の新聞や雑誌を図書館で借り出して、現物に当たってみるよりほかなかった。レスコフが「サンクトペテルブルグ通報」紙、「図書報知」誌、「ロシアのことば(ルースカヤ・レーチ)」紙、「現代医学」紙、「北方の蜜蜂」紙、「経済案内」誌などに書いた記事のひとつひとつをレーニン図書館の机で読んでいくほかなかったのである。

 新しいレスコフ全集の第1巻には、そうした長い月日をかけて読み進めた文章のすべてが収録されていた。オリョールのグローモフさんが今度の全集出版時に初めて見つけたという、私がまだ読んだことのないレスコフの文章もあった。無署名のためレスコフの筆と最終的には確定されていない論文なども、十分な検討を経たのち、<DUBIA>(未定稿)の項にすべて収録されている。この第1巻に収められた文章のうち、全11巻レスコフ著作集に入っているのは、短編「追い剥ぎ」とエッセイ「シェフチェンコとの最後の出会いと最後の別れ」の2編(!)にすぎないという点を見ても、この「全集」がいかに画期的なものであるかが分かる。この1冊の中にあの日々のすべてがあると思うと、不思議な感慨に身をつつまれた。

photo2  オリョールからモスクワに帰り、それまでなかなか連絡のつかなかったヴィドゥエーツカヤさん(ニ十数年前の出会い以来お世話になってきたヴィドゥエーツカヤさんの話を始めるときりがないので、ここではその話はしないが、彼女は、新しいレスコフ全集の出版の中心にいるレスコフ研究者である)とようやく連絡がとれて、TERRA出版社の専用書店を教えてもらい、念願のレスコフ全集第1巻を入手することができた。ヴィドゥエーツカヤさんの自宅に招かれ、手作りのピロシキとレスコフ全集第1巻を前にして話は尽きなかった。
(写真右)=レスコフ全集第1巻を手に、ヴィドゥエーツカヤさんと(モスクワにて)

 その時から4年が経過し、レスコフ全集も第6巻まで出版された。少しでも全集の出版のお手伝いをせねばという気持ちと裏腹に、歳月は流れてゆき、編集のお手伝いをするというヴィドゥエーツカヤさんとの「約束」は果たさぬままになっているのだが、やはり、「約束」は果たさねばなるまい。この全30巻レスコフ全集の出版は何としても完結させねばならない。


HOME「バイコフと虎」シリーズ既刊書新刊・近刊書書評・紹介チャペック