リレーエッセイ

第27回 - 1999.12.06

バフメーチェフ・アーカイヴのこと

長縄光男

コロンビア大学図書館本館前
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 この夏はコロンビア大学付属バトラー・ライブラリーが所蔵する「バフメーチェフ・アーカイヴ」で仕事をしてきた。 誠に充実した一月であった。 もっとも、いささか「目の毒」の気味もあったのだが。

 「アーカイヴ」に冠されている「バフメーチェフ」とは、1917年2月、ロシアに成立した臨時政府によって派遣された駐米全権大使、ボリス・A・バフメーチェフのことであるが、このアーカイヴがなぜ彼の名によって呼ばれるに至ったかについては、少々の説明を要する。

 ロシア人亡命者関係の資料を集めた大きな文書館としては、これまでカリフォルニア(スタンフォード大学)のフーバー研究所とプラハの「Russian Historical Archive Abroad (国外ロシア歴史文書館)」が知られていたが、この内、プラハ文書は第二次世界大戦の後にチェコがソヴィエトの占領下に置かれるに及び、ソヴィエト政府に接収されて非公開となり、事実上利用不可能な状況に立ち至った。そこで、ロシア史の研究者や西欧各地に散在する亡命者たちは関係資料のこれ以上の散逸を恐れ、40年代の末に、かねてより資料の蒐集に携わっていたボリス・I・ニコラエーフスキーの呼びかけに応じて、センターの設立に向けて動き始めた。この時、運動のまとめ役となったのが、当時コロンビア大学工学部の教授であった、かのバフメーチェフだったということなのである。  バフメーチェフの周りにはハーバード大学のM・カルポーヴィチ教授やコロンビア大学のE・モズレイ教授、それと彼の同僚であるロシア研究所のG・ロビンソン教授、スラヴ言語文学科のJ・シモンズ教授、国際関係校教授S・ウォーレイス教授など、錚々たるスラヴ・ロシア学者が集まり、アーカイヴの設立に奔走した。取り分け、ウォーレイス教授はアーカイヴをコロンビア大学の図書館内の独立した部署として設置することに力があった。かくして、1951年4月、ロックフェラー財団の援助も得て、「アーカイヴ」は発足し、さらに、75年、バフーメーチェフの死後、彼の功績を記念して文庫には彼の名が冠せられるにいたったのである。

 文庫の初代の所長、レフ・マゲロフスキーはソヴィエトに接収されるまでプラハの文書館のスタッフだった人で、彼の見識を得て「アーカイヴ」はフーバー研究所の文書とは異なる特色をもった文書館として発展した。即ち、(以下、その特徴を「アーカイヴ」のジェネラル・カタログに付せられたマーク・ラエフによる序文に依って記すと)フーバー研の文書館がロシア革命に限らず、20世紀の革命運動一般に関係する資料を、また、特に第一次世界大戦一般に関する資料を、政策論的観点から蒐集しているのに対して、「バフメーチェフ」の方は、第一にロシア革命後のロシア人亡命者の個人文書のみならず、ポーランドやチェコなど東欧からの亡命者関係の文書も蒐集の対象としているということ、第二に亡命者たちが関係した(政治や文化の)各種のグループや組織に関する資料も蒐集しているということ、第三に帝政末期から内戦期にいたる時期の主立った出来事に係わる資料や政府要人(亡命者でなくとも)絡みの資料が蒐集されているということ、こうしたことに特色を持っているのである。

 亡命知識人の運命に対する私の関心に即して言えば、ベルジャーエフ(216itms-1box)、フランク(3,700-4)、ミリュコーフ(4,000-4)、フョードロフ(1,300-9)、アレクシンスキー(カデット)(4,500-17)、それにバフメーチェフその人の個人文書(34,000-86)、このほか、ホダセヴィチ、ナボコフ、カルサーヴィン、更にはアタマン・セミョーノフ関係の文書等々、いずれも書簡、メモ、著作の原本などからなる、わくわくするような代物ばかりである。(もっとも、中にはすでに刊行済のものもあるから、よほど事前に調査してかからないと、無駄な手間をかけることになるから注意しなくてはならないのだが)。冒頭で「目の毒」の気味がある、と書いたのは、そろそろこれまでの研究のまとめをしなくてはならない年齢になって、今更こんな文献リストを見せられては、ただただ焦らされるばかりだ、という意味だ。

 さて、この度の作業の目的は、Herzen family papers を見ることであった。これは二つのボックスに分かれており、第一のボックスはゲルツェン本人の書簡類で、こちらはすべて公表済み。第二のボックスはゲルツェンの妻、ナタリアからゲルツェンの青年時代の友人ニコライ・イヴァノヴィッチ・アストラーコフの妻タチアナ・アレクセーエヴナに宛てた手紙100通余りが主たる内容で、中には1839年、と言えば、新婚早々、ウラジーミルから送られた手紙もある。(残念ながら判読不能なほどの達筆のため、取り敢えずコピーを取って帰ってきた。いずれロシア人の助けをかりて判読した上、改めてご報告しよう)。すぐにでも読めるのはゲルツェン夫妻がモスクワに帰還したあとに交わされた小さなメモ(伝言)の類で、病気見舞いや行き違いのお詫び、それに夕食用(かどうか)の買い物のリストなど、取り止めもないやり取りに日常生活の匂いが仄かに香り、それはそれで面白いものであった。また、内容もさることながら、このような取り止めもないメモをもって走り使いの小娘が、寒いモスクワの町を行き来していたのかと思うと、ゲルツェン一家の旦那的生活の有り様も覗き見したような気がしたものだ。

 ところで、Herzen family papers を見ている最中に、「アーカイヴ」の司書から、別の文書の中にもゲルツェン関係の書類があることを教えられた。Rodichev family papers (12,000 itms - 38 boxes) がそれである。

 ロジチェフ(フョードル・イズマイロヴィチ、1854年―1933年)については「カデット」の領袖の一人であったという程度の知識しか持ち合わせていなかったのだが、その彼の文書の内、第9ボックスにはゲルツェンの娘ナタリアからのロジチェフ宛の手紙が100通近く収蔵されているのであった。もっとも、この度は娘のことにまで手を出す積もりもなかったし、また、多くはフランス語で書かれてもいるので、判読するには余りに時間が掛かりすぎるので、差し当たり、これらを点検することは放棄せざるをえなかったが、それでもやはり気になる資料である。

 それにしても、何故「カデット」のロジチェフの文書の中にゲルツェン関係の文書が入っているのだろうか――そのことを考え始めると、興味は肝心のゲルツェンを離れ、ロジチェフの方に移り始めたのは、当然の成り行きであった。かくしてロジチェフその人に係わる文書の探索が始まった。

 その文書はすぐに見つかった。box 23に入っている「回想記」類と box 33に入っている娘のアレクサンドラによる父の評伝がそれらである。いずれもタイプで綺麗に浄書されているので、すでにどこかで刊行されているのではないかという思いはかすめたが、関心の赴くところに従い、とうとう読み通すことになった。その後、帰国して自分の書架を探したら、まさにこれらの文書がすでに一冊の本になっていることが分かった。つまり、何もニューヨークくんだりまで行って読むまでもなかったというわけだ。しかし、こういうことでもないと読む機会を持つこともなかったような文献だから、それはそれで後悔することはないのだが、それでもやはり不明のそしりは免れまい。だが、おかげで関心は思わぬ方へと広がり、大きさも適当な(つまり、それほど大きくはない、従って、数年でまとめることのできそうな)格好の新しいテーマを見つけることになったのである。

 ロジチェフの伝記を紹介することは別の機会に譲るとして、ここではロジチェフとゲルツェンの接点についてのみ、手短に書いておこう。

 ロジチェフがゲルツェンの著作に初めて接したのは、1872年、初めて外国旅行でスイスを訪問した時のことである。ロジチェフはこの時18歳、ペテルブルグ大学の学生であった。勿論この時ゲルツェンはすでにこの世にいないが、彼の死後に出版された著作集によって『過去と思索』や『向こう岸から』、『フランスとイタリアからの手紙』などを知ったロジチェフは、ゲルツェンの思想にいち早く共鳴し、早速ゲルツェンの盟友オガリョフを訪ねてジュネーブに赴く。このころ最晩年を迎え、既に気力を喪失していたオガリョフは、若いロジチェフにさほど強い印象を与えることはなかったようだが、ゲルツェンへのロジチェフの関心はそのことによってそがれることはなく、帰国するとすぐに、学生の仲間にゲルツェンのことを吹聴し始めた。だが、「ヴ・ナロード」の最盛期を迎えていた学園において、ゲルツェンの人気は全く低調であった。保守的な学生はゲルツェンを闇雲にこわがり、他方、「出来合いのスローガンやドグマや革命的啓示、信経」を求めていた急進派の「社会主義的」学生にとって、ゲルツェンはこうしたものを与えてくれる思想家ではなかった。時はまさにチェルヌィシェフスキーの時代だったのである。ロジチェフは「祖国雑記」の寄稿者の言葉を思い出している。「ゲルツェンなんて、所詮旦那だよ。彼は貧乏というものを知らず、不幸なチェルヌィシェフスキーを苦しめた家族や子供たちゆえの痛みを彼は一度として味わったことはないのさ。民衆を愛する気持ちは本物かも知れないが、つまるところ、彼は才能のないわけではない旦那――ただそれだけのことさ。」しかし、学友たちの急進的な言動になじむことの出来なかったロジチェフは、あらゆるイデオロギーを排し、人間一人一人の知的自立や道徳的自由を語る根源的なリベラルとしてのゲルツェンに親近感を持ちつづけていた。娘によって書かれた父親の評伝によれば、ゲルツェンは父にとって生涯を通じて変わらず、最も愛する作家でったという。

自由の女神を背景として
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 その彼が卒業後自らの生きる道として選んだのは、官途に就くことではなく、故郷トヴェーリ県の持ち村に帰り、自治体活動に献身することであった。それは鉄道の駅から80露里、郡庁所在地からは120露里も離れた僻遠の地でのことである。ニコライ二世の即位に当たっては県の自治体を代表して建白書を奉呈し、その中で市民的自由や立憲体制の必要を説いて新帝の逆鱗に触れ、一時期政治活動を禁止されるということもあったが、やがて国会の開設に伴い、この県のから選出されてカデット派の議員となって復権し、第一国会や第二国会において雄弁家としての名を馳せることになる。「ストルィピンのネクタイ」という、今もよく言われる名文句は、ストルィピンによる革命派の弾圧を批判して行った彼の国会演説の中で言われたことである。しかし、17年10月、ボリシェヴィキが政権を掌握するや、いち早く亡命し、主としてスイス(ローザンヌ)に住み「革命」政権への批判を続けることになるのである。ゲルツェンとの関係に戻れば、ここにはゲルツェンの娘ナターリアが住んでいたこともあって、ゲルツェン家との親交が深まり、彼の関係資料がロジチェフの文書に含まれることになった、ということなのである。

 ロシア革命期には各派が競ってゲルツェンの「遺産」継承者を名乗った。ボリシェヴィキのレーニンも、エスエルのイワノフ・ラズームニクもそう名乗った、カデットのミリュコーフやストルーヴェもゲルツェンへの親近感を語った。そして、今、もう一人ゲルツェンの思想に依って生きた人物と知り合った。思想家としては小振りな部類に属する人のようだが、それだけに扱い易いというメリットもある。しばらく、付き合って見ようと思っている。


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