リレーエッセイ

第25回 - 1999.10.01

回想記はおもしろい

青木明子

 数年前からロシアの農民たちの回想記に取り組んでいる。いずれも19世紀末にロシアの農村に生まれた人たちのものだ。最初に手がけたのは「トルストイ主義者」という小さなグループの農民たちのものだった。1920年代にトルストイの思想に共鳴する人たちが集まってロシア各地に農業コミューンを作る。その後当局からの迫害によってコミューンを追われた人々が集まって30年代にはシベリヤに移住する。詳しくは『イワンのくらしいまむかし――ロシア民衆の世界』(成文社、1994)の中の一文をお読みいただきたい。そのときのメンバーの何人かが、のちに自分の半生をふりかえって回想記(あるいは手記)を書いている。それらの回想記を読んでいて感じたのは、あくまで自分の信じる思想(信仰と言ってもよいのだが)を守り通そうとする頑固さであり、ふりかかってくる困難を受けとめる謙虚さと自らの創意工夫によって道を切り開くねばり強さであった。その時は彼らに共通するこのような特徴は彼らだけの特異なものであり、彼らの信奉するトルストイの思想によるものであろうと思っていた。

 その後、同じ時代に生きたロシア正教徒農民の回想記を読んで、それがトルストイ主義者たちだけのものではないことに気づいた。あるいはロシアの農民のある部分に共通するものなのかもしれないとさえ思われるようになった。北ロシア・アルハンゲリスク州の農民イワン・ステェパーノヴィチ・カルポフ(1888―1986)が1970年代初めに書いた回想記はそんなことを考えさせてくれるものである。

 『ノーヴイ・ミール』誌1992年1月号に「人生の荒波をくぐって」という表題で掲載された彼の回想記は、70ページを越える長いものである。むろん作家や歴史家によって書かれたものとは違い、彼自身が見聞きしたことのみを、思い出すままに、記憶の濃淡もそのままに書かれている。同じことが繰り返し記述されていたり、時代が前後したりしているところもある。しかしいったん読み始めたら最後まで読み通さずにはいられないほどの筆の力を感じさせる。それは自分がたどった苦難の人生を後の世の人々に伝えたいという並々ならぬ決意にあふれているからかもしれない。

 80年代から90年代にかけてロシアではさまざまな手記や回想記が出版されている。激動の20世紀を生きたロシアの人々には書き残すべきさまざまな人生があったのである。だがそのような多くの回想記のなかでも、ロシアの農村に生まれ育って農村で生涯を終えた人々――ロシアのムジーク(百姓たち)――のものは非常に少ない。ソルジェニーツィンが『収容所群島』のなかで述べているように、概して農民は「……言葉をもたない、読み書きのできない人々であり、嘆願書や回想記を書かなかった」(第1部第2章)と思われていた。しかし自分の生涯を書き残した農民たちも少数ではあるが存在した。その希有な記録が、トルストイ主義者たちの回想記であり、イワン・カルポフの回想記なのである。彼の回想記を通して見えてくるロシアの農民像に焦点をあててみよう。

 イワン・カルポフの幼少期は革命前のロシアの農村の生活そのものである。酒飲みの父。信心深くつつましい母。働き者の祖父。身よりのない子守娘。小さな窓があるだけの粗末な百姓家。母は松明のあかりで糸を紡ぎ布を織った。祖父は薪を割ったり馬の世話をした。草刈り、穀物の刈り入れ、乾燥、脱穀と続く農作業。天然痘や猩紅熱の流行。民間療法。出産と子供の死。クリスマスの村の行事。アル中の父の首つり自殺。母に連れられて行ったソロフキ詣での旅。とりわけ注目すべき出来事は95年の村の小学校の開校であり、そこで彼は読み書きを覚えた。

ソロフキ修道院
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 小学校を終えたのち母の希望によって12才でソロフキ修道院の聖歌隊にはいる。聖歌隊のゾシマ寮での生活や、修道士たちの様子、修道院のさまざまな行事や出来事などは現在では書物によってしか知ることのできないものである。当時大きな勢力を誇っていたソロフキ修道院の内部の様子が子供の目を通して身近なものとして語られていることの意味は大きい。

 ソロフキ修道院にいたのは1年間だが、そこで養われた聖歌への嗜好と歌唱力はその後の彼の人生において重要な位置を占める。ロシア正教における聖歌合唱の美しさはよく知られており、布教の大きな力となったとも言われているが、幼くして合唱の魅力に触れたカルポフは、故郷に帰ってから近くの町の修道院の聖歌隊に入り、そこを足がかりとしてさらにリャブロという港町の教会に聖歌詠唱者としての職を得る。輔祭のいない教会で病身の司祭を助けて聖職者としての仕事に励み、みずから聖歌隊を組織し、母を引き取り、妻を迎える。貧しい農民の家に生まれた彼が、たとえ最下層とはいえ聖職者の仲間入りをするというのは当時としては破格の出世であったようだ。

 だが下層聖職者としての貧しいながらも安定した生活は、1917年のロシア革命によって打ち砕かれた。革命についての直接の記述はないが、そこから引き起こされる戦争や荒廃や飢饉について彼の回りで起こったことがつぶさに語られている。とりわけ各地のロシア正教会の被ったであろう苦難が彼の体験をとおして生々しく伝わってくる。

 教会を追われ、農業集団化の進められている故郷の村に帰った彼は、今度は逆に聖職者であったがためにさまざまな迫害を受ける。当時の農村は集団化のただなかにあった。元聖職者でいまだに神への信仰を堅持している彼は村のコルホーズには受け入れられなかった。その日の食事にも事欠く貧困生活に加えて、村人たちの敵意と軽蔑のなかで孤立して暮らすのは辛いことだった。

 聖職者としての仕事以外に彼が生きる糧として身につけたのは木工と養蜂の技術だった。木工の腕は修道院から村に帰ったとき指物師のところへ弟子入りして身につけたものだし、養蜂は教会で働いていたころに始めたものである。農民出身の聖職者であった彼は、教会の仕事のかたわら森に薪を切り出しに行ったり、教会の農地を耕したりもする働き者であった。養蜂もふとした折りに興味を持ち、貧しい生活のなかで金の算段をして道具を買いそろえ、独力で始めたものである。そしてそのような技術をもっていたことがしばしば彼を窮地から救い出す。コルホーズには入れなくとも養蜂技術者として雇われたり、アルハンゲリスクの家具工場に木工技術者として働きに行ったりする。養蜂は北ロシアではまだ珍しく、政府はコルホーズやソフォーズでの蜜蜂の飼育を奨励したが、技術者がいなかったのだ。

 36年にアルハンゲリスクの木工家具工場で労働組合に加入するための調査に呼ばれ、自分が聖職者であったこと、信仰をもっていることを正直に答えたため逮捕されて、3年間の収容所生活を送ることになる。困難の連続とも言えるような彼の生活の強い支えとなったのは神への信仰であったようだ。信仰が揺らぎそうになると彼の前に神の啓示が現れた。彼に示された3度の啓示は現代の科学では説明できないものであり、まぎれもなく神の存在を示すものであると彼自身語っている。晩年は近くの村に土地を買い、自分の菜園と養蜂場に囲まれた静かな生活を送るが、この生活こそ彼が収容所の苦しい生活のなかで見た夢の実現であり、神の啓示のひとつなのだと彼は信じて疑わない。

 ロシア人が他の民族に比べてとりわけ飲酒を好む民族かどうかは分からないが、酒のために身を滅ぼした話は多い。彼の父や叔父も、さらには弟さえもが飲酒のために命を落としている。その反動から彼は生涯一滴も酒を口にしなかった。自分の結婚式でさえ酒無しですませたほどだ。働き者で信仰心あつく酒を飲まない農民というのは、おそらくロシアの農民のなかでは少数であろう。その最良の部分なのかもしれない。そして常に神について考え自分の人生について考えていたからこそこのような回想記を書くことができたのであろう。そういえばトルストイ主義者たちも酒を飲まず勤勉で信念を捨てない人々だった。ちなみに彼らのなかにも晩年を養蜂で過ごした者もいた。

 先日ソルジェニーツィンが映画監督ソクーロフのインタヴューに答えてこんなことを言っていた。なぜ人は若い頃の回想記を書こうとするかといえば、老人期になると記憶があざやかによみがえってくるからであり、それが記憶の特性なのである、と。昔の出来事がまるで昨日のことのように生き生きと書かれているのはそのためなのであろうか。心を打つ回想記には、個人的な体験でありながら、そのなかに時代の一断面があざやかに写し取られており、他の人々にも共通する思考や感情が流れている。そこには年月を経て振り返った時に見えてくる現実のおもしろさがある。


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