リレーエッセイ

第23回 - 1999.08.13
持たざるものの処世術
――キルギスの「外交」能力――

山中美子

 97年の夏に開催されたサッカーワールドカップのアジア地区予選は、世間における「中央アジア」、カザフスタン、ウズベキスタンの知名度を間違いなく段違いにアップさせた。
 それまでは、「***スタン」等という国名を口にしたところですぐに理解してくれるのはロシア関係者かせいぜいシルクロードファンくらいで、旧ソ連に特段の関心を抱かなかった人々からは、「東南アジアにそんな国ありましたっけ?」とか、ひどい時には「それってアフリカの国ですか?」等という言葉が返ってきて、その後の会話が続かなかったりする場面もまれではなかったものである。
 如何せん、91年の崩壊までは、「強大なソビエト」という絶対的な連邦国家の存在感が強烈過ぎたせいで、その構成員である各共和国の個別の存在を意識させられることも少なかったのだから、これもやむを得ないのかも知れないが。
 しかし、冒頭のワールドカップ以降は、休日のゴールデンタイムにテレビの前で「日本vsカザフ戦」に熱くなったような若者たちにも、日本のそれとは似ても似つかないほどお粗末なアルマティスタジアムの映像とともに、「中央アジア」の存在も記憶にインプットされたようなので、若干便利になった。

 ただ、同じ中央アジアの一国でも、豊富な資源や広大な国土で注目度の高いカザフやウズベクに比較し、キルギスタンについて知る人は、圧倒的に少ない。
 私は95年から97年にかけて、このキルギスの首都ビシュケクに滞在する機会を得た。

 キルギスタンはソ連邦崩壊に伴い、91年12月に独立を宣言し共和国となった。国土は日本の約半分、その大部分を海抜1,000以上の山岳地帯が占めている。自称、「中央アジアのスイス」だけあって、その地形には風光明媚なポイントが数多く存在する。人口は467万人(97年現在)、主な民族構成はキルギス人52%、ロシア人22%、ウズベク人13%、ウクライナ人2.5%、その他ドイツ人・ユダヤ人・朝鮮人等となっている。

 政治体制は共和制をとり、95年12月の総選挙で再選されたアカエフ大統領のもと、中央アジアにおいていち早く民主化と市場経済化を軸とする改革路線を推し進めてきた。社会情勢は比較的安定していると言えよう。
 経済の概況としては、これも中央アジアの中では早い段階から自国通貨「ソム」を導入し、IMF等との協調を行いつつ民営化や歳出抑制等ドラスティックに努力を続けた。その結果、一時期は農業生産の回復やカナダ資本導入による金鉱山開発で軌道に乗りGDP成長率が増加したものの、98年8月のロシア通貨危機の影響を大きく受けた結果、現在では「ソム」が下落し国際収支の悪化を余儀なくされている厳しい状態にある。

 主要産業は、農業・牧畜業、軽工業、鉱工業が挙げられる。
 昨今では、「手付かずの自然」をもって特に外国人を誘致した観光産業に力を入れようとしているが、残念ながら、風光明媚を堪能しに訪れるためのアクセスや周辺の環境整備がなされておらず、「中央アジアのスイス」実現への道のりは、まだ少し遠いようである。
 ただ、実際、観光スポットとしての魅力的な場所はいくつか挙げられる。
 例えば、首都ビシュケクから臨む冬の天山支脈。冷えた透明感のある空気を通して眺める頂きの雪の白さと山肌の青さのコントラストには、山好きでなくても圧倒される。また、初対面のキルギス人には例外なく「あそこに行ったか?」とたずねられる「イシククリ湖(キルギス語で「暖かい湖」の意)にしても、透明度を誇り、湖底には古代遺跡が眠っているとの神秘的な説もあることからもなかなか魅力的なポイントと言える。

 キルギス人の宗教はイスラム教スンニ派が主流。ただ、イスラムといってもさほど戒律を厳しく守っているようには見られず、私が日々の生活の中でイスラムらしさを感じた場面は、せいぜい暦に「ノルス」や「ラマダン」があるとか、男尊女卑の観念が現代でも根強く残っていること(例えば、女性には葬式への参列が許されていない)くらいに思える。もちろん個人差はあるが、豚肉も酒も平気で口にするし、断食もほとんど行われていないようで、かなり「おいしいとこ取り」のあっけらかんとしたイスラム教徒である。

 首都ビシュケクをはじめとする都市部の外観は、他の旧ソ連の都市と違いはない。集合住宅が林立しており、市街地にはレーニン像が立ち、ツム(百貨店)があり、インフラ整備されているところ等。また、ソフト面についても、行政職員の対応や仕事の執り進め方は極めて縦割りのソビエト的印象を受ける。

 反面、地方部ではまだまだの遊牧民族の素朴さ残しており、ビシュケクからちょっと車を走らせると、日本人が日焼けして色黒になっただけのようなそっくりな顔つきをしたキルギス人のおじさんが、「カルパック」というフェルトの尖がり帽子を被り、馬に跨って羊の群を追っている光景がすぐに見られる。やっぱり日本人にそっくりなキルギス人のおばさんは、訛りが強く聞き取るのに困難なロシア語で話し掛けながら、貧しいながらもあれこれと可能な限りのおもてなしをしてくれたりする。
 そうすると、顔だけではなく、一般に日本人的と言われている気質(つまり「遠慮がち」だとか「気を遣う」等)までもが似ているような気がしてきて、徐々に親しみがふつふつと湧いてくるのである。

 以上、つらつらと表面的なキルギスについて書かせていただいたが、私は、キルギスの最もキルギスらしい長所が実は、その「外交」能力ではなかろうかと密かに考えている。

 特に資源を持つわけでもなく、産業振興の自立もおぼつかない彼の国が、大いに頼みとしているのは、西側各国からの経済援助である。
 キルギスにとって最大の援助国である我が国は、二国間だけでも有償・無償・技術協力を含めて240億円以上の援助をしているし(97年までの累計、この他人道支援約533万ドル)、その他アメリカ、ドイツをはじめとする西欧各国の他、IMF、世銀、欧州復興開発銀行(EBRD)、OECD等の国際機関も支援を実施している。

 ただ、同じ中央アジアに対する経済協力と比較した場合、例えばカザフに対するそれとは、どことなく「なま臭さ」が希薄なような気がする。
 キルギスのポテンシャルを考えた場合、日本及び欧米諸国にとっては、ガス・石油に絡んだ利権獲得等のような具体的な見返りがあまり見当たらない。つまり、キルギスに対する経済支援というのは、分かりやすい大きな見返りを期待して行う種類のものというより、まさに「純粋な支援」という印象を受けるのである。(もちろん、他国に対する支援が、利権獲得のみを目的としているわけではないが。)
 なぜ、キルギスがこうも、意外なまでに淡々と各国の支援を引き出すことができるのか。

 これはひとえに、キルギスの「かわいさ」「真面目さ」「したたかさ」等の要素からなる「外交」能力と呼べるものがゆえではないだろうか。

 90年秋、ソ連邦最高会議においてアカエフ大統領は、「西(西欧)でなく東(日本)を見よ」と宣言した。日本との協力関係を打ち立て、国土が小規模で資源を持たなかったにもかかわらず、戦後の復興期に高度成長を為し得た日本に学べ、というのである。
 こんなことを言われると日本人としては、面映ゆいけれども悪い気はしない。
 それが、口先だけではないと思えるのは、日本から要人が来日した際等である。
 アカエフ大統領は常に積極的に面会に応じようとし、形式的な会見のみならず、都合さえつけば自然の中で接宴の席を設けていそいそともてなしたりする。その自然の美しい景色にもさることながら、こんな赤じゅうたんで、故郷の親戚みたいな顔をした人たちから歓待を受けた日には、キルギス人のホスピタリティに出張者一同、例外なく感激する。そして、「こんないい国は、やはり何とか頑張ってほしいものだ」と、心の底から気にかけるようになってくる。

 そうやって「日本は素晴らしい」と誉めちぎっておきながら、キルギスが市場経済化をおし進める上で採った経済政策は、そのお手本とする日本型とは異なる「IMF型の改革路線」のものであった。
 また、西側各国との良好な関係を維持しながらも、安全保障面・通商面におけるロシアとの協調も崩さない。
 かわいいだけかと思いきや、ここがなかなか状況をきちんと判断し、一方向に流されない「したたかさ」がある。
 アメリカやドイツにとっても、「中央アジア一の優等生」と評判の「真面目さ」がある。

 決して強い自己主張はしているように見えないにもかかわらず、意識的にか無意識的にか、結局は自分の能力以上の評価を得ている。これらの要素が総合的な「外交」能力となっているのではないだろうか。

 キルギスは、何をも持たない自分というものをを自覚しているからこそ、お高くとまって沽券やプライドに固執するような態度をせず、自然に素直に謙虚に振る舞い、そして礼儀を尽くす。(若干、八方美人的との批判を呼ぶこともあるようだが。)それが結果的に、皆さまに愛され大切にしてもらえることにつながるわけなのである。

 いや、これは何も国際関係のみにおけるお話ではないのだ。
 際立った長所を持ち合わせて生まれ付かなかったひとりの女性としては、このキルギスの「素直なかわいさと、無邪気なしたたかさを武器にした処世術」を、是非ともお手本にしたいと考えているのだが……。

誰がキルギス人で、誰が日本人かわかりますか?
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