リレーエッセイ

第19回 - 1999.01.14
ブラゴヴェシチェンスク訪問記(1998年7月)

下里俊行

 「勢い」と「成り行き」に従って暮らしているうちに、ブラゴヴェシチェンスク市という極東ロシアの町を訪れる機会に恵まれた。これは、勤務校のある新潟県上越市が姉妹都市提携に向けて市長以下、20名ほどの訪問団を派遣するというので、それに同行することになったからである。その際、筆者には、大学間交流のための事前調査という任務も課せられた。今日、日本海沿岸地域では対岸交流が盛んなので、こういう仕事もある。

 訪問を前にして少し事前調査をしたが、ブラゴヴェシチェンスク市に関しては、現地を調査した札幌大学の大矢温氏から有益な情報をいただいた以外にあまり公開された資料がなく、一同いささか不安感を抱いて出発したが、訪れてみると閑静な居心地のよい町であった。そこで現地で撮影してきた映像を交えながら、この町の様子を断片的に紹介してみたいと思う。

 訪問団は、新潟空港からハバロフスクに飛び、そこからシベリア鉄道でブラゴヴェシチェンスクに向うことになった。あとで聞いたことだが、同市には、ハルビンから鉄道で黒河(ヘイヘ)に向かい、アムールを渡河するルートもあり、これは早稲田大学で建築史を専攻しておられる佐藤洋一氏が辿られたそうだ。

シベリア鉄道

 ブラゴヴェシチェンスクには、ウラジオストクからの直行便がある。ベロゴルスク駅でシベリア鉄道幹線からアムール鉄道に入った終点である。車内で乗り合わせた学生は、夏休みで遊びに行くと言っていた。たくさんの荷物をもった一般乗客も多い。ハバロフスクを16時20分に出発し、ブラゴヴェシチェンスクには翌朝の8時10分に到着する予定である。

車両1 車両2

 右上の映像は、一般車両(左)に、訪問団専用の特別車両(右)が連結されるところである。当日は、摂氏30度前後の猛暑であったが、特別車両はクーラー付きで快適な旅を送ることができた。車掌によるコーヒー、茶、軽食の有料サービスもある。難点は、停車中はトイレが使えないことだけである。もちろん紙つきである。一般車両にはレストラン車両も連結されていて、フルコースの食事や酒、またアサヒ・スーパードライも注文できる。カップラーメン等も販売されている。

郊外 アムール河

 列車は、ハバロフスク郊外を抜けると、すぐにアムール河=黒龍江を渡る。右上の映像は、鉄橋からハバロフスク市街地方面(下流)を遠望したところである。河の色は、茶褐色で流れもかなり急である。画面の反対側のかなり上流にブラゴヴェシチェンスク市がある。

ダーチャ

 車窓からは、別荘(ダーチャ)が散在している様子を見ることができる。たいていは、菜園にジャガイモが植えられていた。大部分は草地で時折、刈り取られた草がうず高く積まれているのが目に入る。一度だけ、ソ連国旗に描かれているような大鎌で草を刈っている人を見た。

ゼヤ河

 翌朝、すでに支線に入ってゼヤ河を渡るところである。アムールと異なり澄んだ濃紺の河の流れは穏やかであった。1913年、ここにかかるゼヤ渡河鉄橋の敷設とともにシベリア鉄道から枝分かれするアムール鉄道が開通した。画面中央の奥でゼヤ河がアムール河と合流している。ブラゴヴェシチェンスクは、この合流地点の上流側に位置している。

駅

 列車は、予定時刻ぴったりにブラゴヴェシチェンスク駅に到着した。訪問団は、副市長をはじめ市職員によって出迎えられ、「日の丸」を掲げたタクシーに分乗して、民警のパトカーの先導でホテルに向かった。駅前のメインストリートの名称は、「10月革命50周年記念通り」である。運転手が誇らしげに教えてくれた。

レーニン広場

 アムール河に面した市の中心部に位置する「レーニン広場」には、ウラジミル・イリイッチが立っている。横断幕には、「140周年おめでとう、同郷人よ!」とある。今回の訪問団は、ブラゴヴェシチェンスク市制140周年記念式典への来賓でもあった。この広場の正面には、アムール州庁舎が建っており、ロシア共産党の州知事が執務している。市長は、エリツィン派だという。記念式典自体も、非常に興味深いものであったが、別の機会に紹介したい。

ゼヤ・ホテル

 訪問団が宿泊した市営の「ゼヤ・ホテル」である。この中に、今回の訪問団の受け入れをコーディネイトした「在ブラゴヴェシチェンスク・ロシア日本協会」のオフィスもある。筆者に割り当てられた部屋には、クーラー、カラーテレビ、冷蔵庫があり、電話は国際通話も可能であった(滞在中に勤務校から電話が入ったのには驚いた)。トイレも清潔で使い捨て洗面セット(中国製)が備え付けてある。紙の予備もある。湯は問題なく出たが、バスタブがない。概して快適である。さらに訪問団警備のためにオモン(ОМОН)と呼ばれる特命警察隊員が配備された。間近でオモンを見たのは初めてだ。2階レストランの一部では、中国人がショービジネスを経営しているし、ホテル前広場にはナイト・カフェテラスが開かれ、アムール対岸からの観光客や若者が長い夏の夜を楽しんでいた。泰平である。ホテルから歩いて2〜3分で河岸公園にでるが、ここでも夜遅くまで屋台が開いており、若者で賑わっていた。夜の蚊はかなり多いが、虫よけスプレーも普及しているようだ。

大豆研究所

 今回の訪問団は、「経済視察」がメインであった。これは、市郊外にあるアカデミイ・大豆研究所の正面である。正面のスローガンは「科学の成果を生産へ!」である。アムール州は、全ロシアの60%の大豆を生産している極東有数の農業地帯である。上越市の訪問団(とくに農協関係者)の狙いの一つは、この地域の大豆の輸入の可能性を調査することであったが、ここの大豆は搾油用であったため、日本での加工用(味噌など)には適さないことがわかった。ただし、この研究所で開発された高収量の大豆が北陸農業試験場で試験栽培されることになり、農をめぐる交流も始まった。

男子ギムナジア

 筆者にとって重要な訪問先のひとつがブラゴヴェシチェンスク国立教育大学である。学生4000人以上の小中学校の教員養成大学である。創立は1890年。上の絵はがきは、教育大の前身「男子ギムナジア」の建物である(「10月革命造船所博物館蔵」)。同大学には、日本語学科はなく、ロシア語のできる日本語教師の派遣を求めている。

入学試験 正門前

 訪問当日は、ちょうど入学試験の最中であった。競争率は3倍だという。正門前には、受験学生の保護者たちが集まっていた。教育大以外にもブラゴヴェシチェンスク市には、アムール国立総合大学、極東国立農業大学など7つの高等教育機関があり、学生の街である。

10月革命造船所

 ブラゴヴェシチェンスク市の主要な企業の一つ「10月革命造船所」である。従業員は600名、最近80名を解雇したばかりだという。職員の月給は平均200ドル。かつては軍艦製造が主で、今も政府受注に頼っているという。基本的にマニュアル労働の世界である。

プラカード

 造船所の壁面には、ソビエト時代のスローガン「この世には労働者よりも高い称号はない」。このほかに「人民に平和を」「品質・効率・速度」というプラカードも掲示されていた。これらは過去の痕跡なのか、それとも現在の一部なのか?

トラック1 トラック2

 貨物用河川港に入ってくるトラックの積み荷は、くず鉄であった。アムール対岸の中国の黒河市に輸出されている。ここからは、日本向けの木材も輸出されている。入ってくる積み荷はジャガイモのようだった。

アムール・フェア

 市内にある「アムール・フェア」という見本市場である。中国製商品があふれている。中国からの観光客も多い。ブラゴヴェシチェンスクの地場産品は、ビール、菓子、食肉など限られているが、ビールはうまいし、ハム類もバラエティに富んでいる。

中国 トヨタのRV

 左上は、中国からの出店コーナーである。トヨタのRVも展示されている。ブラゴヴェシチェンスクは、まさしく国境貿易の町である。対岸の中国側の国際自由貿易市もかなりの活況で、ロシア語を話す中国人も多い。中国製ウォッカは上等であった。

黒河市街地

 ブラゴヴェシチェンスクから黒河市街地(画面奥の建物群)を遠望したところである。中央の遊覧船は、ロシア側の波止場に停泊する「ミクルーハ・マクライ号」である。これに乗ってハバロフスクまで泊まりがけでクルージングするのが、夏休みの贅沢なレジャーのひとつである。手前には河水浴する人々。

アムール対岸の中国

 レーニン広場からアムール対岸の中国側をパノラマ展望したものである。中央の大きなビルは夜明かりがつかないダミーである。画面の両隅にロシア側の二つの波止場がみえる。右隅の対岸が黒河市である。河は右(西)から左(東)へと流れている。1960年代に堤防ができる前は洪水が町を襲ったという。さらにさかのぼれば、海蘭泡の悲劇の現場でもある。この上流から筏にのったザバイカル・コサックの一隊50名がやってきて、ブラゴヴェシチェンスク市の前身ウスチ・ゼヤ村を開いたのは1856年のことである。その前には、今では考古学と民族学の対象となっている人々が暮らしていたのである。

ロシアの警備艇

 アムール河の国境ライン上に係留されているロシアの警備艇である。上のパノラマでは中央やや左よりに点として写っている。艦上で船員たちが日光浴していた。かつての軍事的緊張の最前線である。

モニュメント1 モニュメント2

 1858年5月、ウスチ・ゼヤ村に東シベリア総督ムラヴィヨフが到着して、対岸のアイグンに条約交渉に向かった。清との間に結ばれたアイグン条約によりアムール河以北がロシア領として確定する。これを機に勅令により「ブラゴヴェシチェンスク市」および「アムール州」が設置された。上のモニュメントはこれを記念するものとして最近建てられた。ペンキ塗りたてであった。

建設当初

 この写真は、ブラゴヴェシチェンスク建設当初の写真である(10月革命造船所博物館蔵)。この町にはバクーニン、クロポトキン、チェーホフ、ニコライ皇太子が訪れ、バロードやデェイチやポーランド革命家が滞在し、福島安正や玉井喜作が立ち寄り、石光真清が暮らした。彼ら以外に無数の日本出身の男女が商いをし、無数の日本兵らが連行された場所でもある。そして現在、再び国境を越えた人と物の交流が活発になりはじめている。ここで紹介したのはブラゴヴェシチェンスクの様子のほんの断片にすぎない。これを見た人がこの町を訪れてみたいと感じていただければ幸いである。


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