リレーエッセイ

第16回 - 1998.06.01
マサリク博物館訪問記

西角純志

writer  マサリクの故郷ホドニーン

 ホドニーンの町は、チェコスロヴァキア初代大統領T.G.マサリク(1850〜1937)の生地として知られています。マサリクは、政治家のみならず、社会学者、哲学者として優れた業績を残しています。ホドニーンは、モラヴィア地方の東南部にあり、人口僅か2万人程度の町です。ホドニーンの東に流れるモラヴァ川は、スロヴァキアとの国境線にあたります。国境といっても、警備員や有刺鉄線があるわけでもなく、水遊びなどもできます(写真右、ホドニーンで撮った著者、その後方がモラヴァ川、さらに後方がスロヴァキア領)

 ブルノからホドニーンに行くには列車が便利です。ザァイェチーもしくは、ブジェツラフで一時乗り換えることになります。列車から観る車窓は大草原そのものです。ホドニーンに行こうと思った動機は、マサリク大学指導教授Jan Zouhar, Jaroslav Hroch先生から勧められたからです。また、友人David Hollanの故郷でもあるからです。私は、この大学の先生とともに「20世紀チェコ現代哲学」を研究しています。 

 ホドニーンの駅に降りると、左側にナーロドニ・トゥシダという大きな通りが走っています。名前自体、プラハの駅名を思い出しますが、この道を歩いていくと右手にマサリクの記念碑があります。一見何気ない記念碑ですが、調べてみると意外なマサリク記念碑の歴史に驚きます。

masaryk  マサリクの記念碑の知られざる過去

 マサリクの記念碑は、1931年に建てられ、1940年までは、背後の「敷地」は完全な形で存続していました。ところが、1940年から45年の5年間の戦争期においては「マサリクの彫像」は誰かによって隠され、「敷地」は、何者かによって完全に破壊されました。その後、戦争終結後の1945年に「マサリクの彫像」は、再び設置されました。

 1948年には、共産党体制がはじまり、その後1950年に再び背後の「敷地」は、復元されましたが、1961年にはその「敷地」は完全に取り除かれました。一方、「マサリクの彫像」の方は再び1961年から1968年までは、「ミロティセ」という村の「城」のなかに隠されました。そして「プラハの春」の年、1968年10月25日を機会に「マサリクの彫像」は再び取りつけられました。しかしながら、1977年には、「マサリクの彫像」は、再々々度取り除かれ、芸術の「画廊」のなかに隠されました。

 その後「マサリクの彫像」は、1989年の「ビロード革命」を経て1990年3月7日には最終的に復元され、現在は「マサリクの彫像」のみが建っています(写真左)。このマサリクの記念碑の歴史が物語っていることは、チェコの政治情勢の安定期には彫像があり、不安定な時代には「マサリクの彫像」がたっていないということです。こうしたマサリクの記念碑の歴史はマサリク再評価の動向とも重なってきます。

 マサリクの再評価の動向

 マサリクの再評価の動向は、一般的に4つの時期(1918年、1945年、1968年、1989年)に分けることができます。最初の動向はオーストリア=ハンガリー帝国のなかにあるチェコ民族を解放しようとした時です。ナチスドイツの占領期間および第2次世界大戦の間ではチェコは、国家の地位を喪失しましたが、コミュニストを含んだナジに反対する抵抗運動の指導者たちを一つの共通の関心へと導いていった点で、マサリクは新しい共和国の新たな始まりを求めた価値観を代表していました。

 1968年、8月のソヴィエト軍隊の干渉、全体主義体制の復活の後は、マサリクについての研究は、政治的舞台から地下文学のなかに転じられました。マサリクが批判されればされるほど、ますます反対派のなかで憲章77条についてや、マサリクおよび亡命知識人についての議論が起こりました。1980年代の中頃にはマサリクの名前は、記念祭、式典においてますます頻繁にみられるようになりました。

 1989年11月17日はマサリクが幅広く、民族意識において復活した時です。それはまた、社会主義の改良のみならず全体主義の社会を完全に廃止して徹底した民主主義社会を創立するための運動でした。

museum  マサリク博物館訪問

 「マサリク博物館」(写真右)の開館時間は土曜を除く日曜から金曜まで8時から12時、13時から16時半までです。また日曜は、同じ時間帯でも1時間遅い9時から開館されます。館内は撮影禁止ですが、マサリクの所持品や履歴書などが展示されています。よく見かけるTGMというマークは、トマーシュ・ガリッグ・マサリクの略称です。友人宅で読んだマサリクの初版の作品(例えば『社会問題』、『チェコ問題』)の表紙にはこのマークが大きく書かれていました。ちなみに友人宅でみせてもらったマサリクの古い写真集や絵葉書は、現在では入手しにくくなっているとのことです。館内では、来館者向けのビデオフィルムが上映され、当時の様子やマサリクの生の声を聞くことができます。マサリク大統領が馬にまたがってプラハの町のなかを行き来する場面や、大衆の前で演説をする場面などがとても印象的でした。

 博物館に入って興味深かったことはマサリクのパスポートが展示されていたことです。マサリクが、チェコスロヴァキア建国前の1918年4月に訪日したことは一部日本でも紹介されていますが、彼のもっていたパスポートには身の安全のためでしょうか、T.G. Marsdenと書かれていました。日本政府がシベリア出兵の議論で揺れていた頃です。パスポートにはロシア政府の査証のチェックの形跡がありました。マサリクはシベリアを通過して日本に入国したのでしょう。

 例えばチャペック『マサリクとの対話』では、「日本に立ち寄って、ヨーロッパの同盟者たちと接触して、また日本政府に、我々の兵士たちの少なくとも一部が日本でヨーロッパ行きの船に乗るために日本に来るということに、注意を促しておかなければなりませんでした。私は、日本を研究することはできませんでした。周囲を見回している暇がなかったのです」と語っていますから、ロシアでチェコスロヴァキア軍団の設立の合間に立ち寄ったことがわかります。マサリクはその後横浜からエンプレス・オブ・エイシア号でバンクーバーに向けて出航し、チェコスロヴァキア独立運動を組織することになります。

 昨年は、マサリク没後60周年を記念して「 T.G. マサリクとロシア革命」と題するセミナーがこの町ホドニーンで11月19日に行われました。内容は、 「T.G. マサリクとチェコスロヴァキアの関係」「 T.G. マサリク: 哲学者と教育学者」「T.G. マサリクと社会学」「マサリクの思想と宗教」「マサリクの哲学における民主主義と存在の概念」「第一共和国の複数政治体系」といったものでした。


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