リレーエッセイ

第10回 - 1997.11.13
ドヴラートフ家の人びとってどんな人?
――ドヴラートフとのおかしな関係――

守屋愛

book  ドヴラートフがついに日本語の本になって嬉しい。

 沼野充義先生の授業ではじめてドヴラートフを知ったのは、3年くらい前のことだ。もちろん、そのときには、ドヴラートフが私の人生にこんなに関わってくるとは想像もできなかった。ドヴラートフとは縁があるような気がする。もっとも、それは単なる思い込みなのかも知れないのだけれど。

 95年の夏にサンクト・ペテルブルグ大学に短期留学した。短期留学なんてほとんど遊びに行ったようなものなのだが。

 93年にソ連で3巻のドヴラートフ選集(写真、その第1巻)が出版されたり、94年3月にペテルブルグの有力文芸誌『星』がドヴラートフ特集号を出したりで、95年もドヴラートフ人気は鰻のぼりという感じだった。

 そのとき、いたるところでドヴラートフにお目にかかった。

 大学で先生が「外国人のための新しいロシア語教材なのよ」とある本のコピーを配り出した。なんでも『不思議なロシア人の心』という題名だった。ぱらぱら読んでみると、「謙虚さはロシア人の美徳である」云々と書かれた章があって、そこには「たとえば、アメリカに行ったロシア人作家セルゲイ・ドヴラートフの場合」なんて部分があった。英語への訳者が完成させた翻訳をドヴラートフのところに持っていって、それを渡しながら「いい訳だと思うんですけど」と言う。ドヴラートフは驚いたが、あとになって「アメリカでは謙虚さは重要な美徳ではない」のだと知った、というお話。読んだ当時、ロシア人の性格を論じるのに、亡命者でしかもユダヤ人のドヴラートフを具体例に挙げるなんてロシアも変わった、と思った。

 さらに、ペテルブルグの町には、テーブルの上に本を並べてるだけという感じの、道端の本屋がよくある。そういうところでは、ケバケバしい色をした大衆小説が売られているのだが、そこになぜか、白と黒のドヴラートフ選集が置かれているのをよく見た。だいたいいつも、大事そうに汚いビニールに包まれて。

 他にも、地下鉄で若者がドアの傍に立ちながら、あの白黒のドヴラートフを読んでいた。8月24日にはドヴラートフの五周忌の特別番組を放送していた。

 ところで、そのとき私はあるユダヤ系の老婦人、ダリーラおばあさんのところに下宿させてもらっていた。しかし、ただのおばあさんと侮ってはいけない。若い頃は医学アカデミーで人間の脳を研究していたほどの人なのだから。彼女の枕頭の書がドヴラートフだった。(実は、数年前、長縄光男先生がそこに下宿していらっしゃった。長縄先生に紹介していただいた人なのだ。)

 医学の道を歩んで来た人なのに、彼女は文学にとても造詣が深かった。ロシアのインテリなら、まあだいたいはそうなのだろうが、彼女は父親が出版社に勤めていたということがあって、とりわけそうだった。なんでも、若かりし頃、文学を志したいという彼女に、父カウフマン氏自身が「今の時代に人文系の道に進むのは不幸だ」と諭し、結局ダリーラおばあさんは医学を選んだとか。

 ペテルブルグに行ったことのある人なら、ネフスキー大通りにある『ドーム・クニーギ』という大きくて古くてきれいな本屋さんをご存じだろう。1階と2階が売り場になっている。今はどうなっているのか知らないが、ダリーラおばあさんが子供だった頃、カウフマン氏はその上の階にある出版社に勤めていたそうだ。『わが家の人びと』を読んだ方ならもうご存じ、あのマーラおばさんはそこで働くカウフマン氏の同僚だった。カウフマン家にマーラおばさんがボーリャを連れてきたこともあったとか。

 私は、残念ながら、『わが家の人びと』のモデルとなった実在の人びとに誰一人会ったことはない。かれらを取り巻く人びとに出会う機会には恵まれているのだけれど。

 アメリカに亡命したドヴラートフはニューヨークで『新アメリカ人』という亡命ロシア向けの週刊新聞の編集長になるが、その編集部にはピョートル・ワイリとアレクサンドル・ゲニスという二人組の批評家がいた。ちょうど、このゲニス氏が昨年、ワイリ氏がつい先週来日した。

photo  恥ずかしながら、「ドヴラートフを研究してます」なんて言って、二人からそれぞれ、本物のドヴラートフとはどんな人物だったのか、聞く機会を得た。まあ、話を聞いてみたところで、実際に会ったことはないのだから、やはり推測することしかできないのだけれど、ドヴラートフって実は『わが家のひとびと』の主人公よりもずっと堅物だったのではなかろうか、なんて思う。ゲニス氏に言わせれば、ドヴラートフの作品にはドヴラートフのことがよく書かれているけれど、実際とは全然違うところがある。ドヴラートフはお酒を飲まなかった。ワイリ氏によれば、ヨシフ・ブロツキー(写真、左の人物、右はドヴラートフ)は社交的で、お客を招くのが好きだったけれど、ドヴラートフは逆に非社交的で、亡命してニューヨークに住んでも劇場なんかにも行かず、うちでもっぱら作品を書いたり、昔の作品を書き直したりしていたらしい。沼野先生がサインをねだったときにも、ニコリともしなかったというし……。

 でも、確かに、ウソみたいな話とユーモアに覆いかくされてしまってはいるが、よく読むと『わが家の人びと』のなかのドヴラートフも非常に真面目な語り手である。笑わしてやろうなんて態度は全然ないのに、ユーモアに満ちている。だからこそ、そのユーモアのなかには哀しさが漂っている。人との死別とか、家族との別離とか、故郷の喪失とか。

 沼野先生のあとがきのなかに、「過大評価されている作家ベスト10」にドヴラートフが上位を占めているという話も載っているが、実際、ゲニス氏やワイリ氏はドヴラートフの作品をとても高く評価している。もちろん、死んでしまった友人の作品という思い入れもあるだろうが、ドヴラートフの作品を語るときの二人は非常に真剣で情熱的である。なによりも、ドヴラートフの作品が好きなんだな、ということが伝わってくる。

 なんでも、ゲニス氏は繰り返し繰り返し読んでいるので、かなり暗記してしまったほどだそうだ。

 ワイリ氏来日の折、沼野先生をはじめロシア研究者たちと歓談をした。現代作家たちの話をしていたときに、「○○○○(現代ロシア作家名)はどうでしょう?」という質問がでた。ワイリ氏は「長すぎるから、短く訳してしまえばいいよ」と笑い飛ばした後で、くるりと私の方を向いて真面目顔で「でもドヴラートフは短くしちゃだめだよ」と言った。

 ところで、一週間後、私はシアトルに行くらしい。いや、まだ自分でも半信半疑なのだ。アメリカにはまだ一度も行ったことがないし、ロシア文学をやっていてアメリカに行くこともないだろうと思っていた。ところが、今度、ゲニス氏や詩人レフ・ローセフ氏などドヴラートフの友人たちが企画して、アメリカの学会でドヴラートフのパネルを開こうということになったのだ。それに、私も参加させていただこうというわけだ。ドヴラートフとの縁で、ついにアメリカに行くことになってしまった。

 アメリカといえば、ドヴラートフのお母さんも、奥さんのエレーナさんも、娘のカーチャも、息子のニコラスもアメリカに健在だ。ぜひ、『わが家の人びと』に会いたい。けれど、かれらが住むのはニューヨーク。シアトルからニューヨークはまた遠い……。


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