リレーエッセイ

第8回 - 1997.09.01
開かれたロシア、その自然の深い森のなかへ

木下豊房

 さて、成文社から8番目のリレー走者に頼まれた私だが、このシリーズで、2番(長縄光男氏)3番(栗生沢猛夫氏)のバトンが気になる。そこでこのご両人のロシアへのこだわりから、話題を受け継ぎたい。私はいろんな弾みがあって、92年の夏以来、95年を除いて、毎夏、ロシアへ行っている。この9月中旬にも10日ほど出かける。

 出かける弾みというのは、人と人との付き合いが完全に自由になって、向こうの大学や研究者達の間でも、村起しではないが、国際学会や研究集会なるプロジェクトが流行になっていて、盛んに招待状をくれるし、ヴィザを取るのもまったく面倒ではなくなったからである(それに比べれば、ロシアから研究者を招待する場合の日本側の手続きの面倒くささは、いまだに旧ソ連か、それ以上といっていいらしい)。

 要するに、長縄氏がなんといおうと、今のロシアの風通しのよさは、魅力である。と、こう私がいうと、反論が待ち構えているのは先刻承知である。非能率、情報不足、基準の欠如、貧富の格差、犯罪その他もろもろ、いわゆるロシア人の弱点と思われているものの数々。それらは、私の経験によれば、現象としてはロシア的な形態であったとしても、欧米やラテン諸国の国民、大都市にも無縁の現象では決してない。そこでは情報ホーリックで過保護的な日本人の自意識こそ試されるのである。

 私が感じる今のロシアの風通しのよさとは何か。それはソ連時代と違って、外国人の差別なく、思いたったらどこへでも自由に行けることである。私は昨年、3月末から9月末まで半年、モスクワを本拠に暮らしたが、ドストエフスキーのスターラヤ・ルッサからプーシキンのミハイロフスコエの国際学会へはしごし、さらにペトロザヴォーツク大学の「ロシア文学における聖書」と題する学会へ足をのばした。そのエクスカーションではキジー島へ行ったが、この時、帰路の船に、私とアメリカの大学院生の女性と、ロシアの研究者の男性と3人がこちらの不注意で取り残されるというハプニングが起こって、島で一夜を過ごさなければならなくなった。しかし博物館長の世話で、湖畔の小さな小屋をあてがわれて、3人で、さながらムンクの絵にあるような白夜の湖面に映る月の風景を眺めながら、ロマンチックな夜を過ごすという幸運にめぐまれた。ソ連時代だったらこんな自由は望むべくもなかっただろう。

 さらに私達夫婦で、8日間のヴォルガのクルーズに参加した。もはやインツーリストはこうした企画はやっていないので、民間の会社を探すのにかなり手間どったが、申込はごく簡単、100人ぐらいのロシア人乗客に混じって、モスクワ、ウグリチ、コストロマ、ヤロスラーヴリ、ニージニイ・ノヴゴロド、チェボクサールィのコースを往復した。本来はオカ川経由のモスクワ帰港だったが、水位が低く変更された。主だった場所に寄港して数時間ずつの楽しいエクスカーションがおこなわれた。レヴィタンの地プリョスでは、同行のキム・レーホ氏とヴォルガの水浴を楽しんだ。


 その後、私達はニージニイ・ノヴゴロド外国語大学の会議に招かれて、ニージニイ・ノヴゴロドからカザンへヴォルガを下り、カザンからバスでカマ川河畔のナーベレジヌイ・チェルヌイ(旧ブレジネフ市)へ行った。

 広いロシアの大地をこのように自由に移動できる楽しみの一端を、半年の滞在の間に十分に堪能した。思い立って、汽車の切符を買おうとするなら、私のモスクワでの経験では、ボリショイの裏手のペトロフカ通りのビューローへ行けば、現金がなくともカードで簡単に買えた。夜行は危険だとか危惧する声も知らないではないが、私の経験では杞憂であったし、何度も利用した夜行列車のトイレの便座が普通に使えると分かったのも嬉しい驚きであった。確かにロシア人の所得のレベルからいえば運賃も高くなったし、ソ連時代のように、民衆が大挙して移動することは少なくなって、そのプラスの影響かもしれない。

 もはや私達外国人にとっても、モスクワ、ペテルブルグのような大都会だけがロシアではない。エッセイ第1回(太田正一氏)の話題ではないが、外国人の私達だって、ロシアの自然の深い森のなかで、自分を見つめようと思えば、お上の何のお咎めもなくできる時代なのだといえば、多少言い過ぎだろうか。もちろん自由ということは、安全を意味しないし、むしろその逆である。この単純なことを噛みしめてロシアへの旅にのぞめば、あの広いロシアの自然と人々の人情ほど魅力あるものは、そうざらにあるものではない。


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