苦悩に満ちた物語


チャペック小説選集第2巻

K・チャペック著/石川達夫訳
四六判上製/184頁/定価2039円(本体1942円+税)

妻の不貞の結果生まれた娘を心底愛していた父は笑われるべきか?外的な状況からはつかめない人間の内的な真実や、ジレンマに立たされ、相対的な真実の中で決定的な決断を下せない人間の苦悩などを描いた9編の中短編集。(1996.10)


訳者解説

 一九一七年に最初の単独の作品である短編集『受難像』(本選集第一巻)を上梓したチャペックは、一九二〇年に戯曲『盗賊』と『RUR(ロボット)』を発表した後、一九二一年に二番目の短編集『苦悩に満ちた物語』を出版した。この短編集は、一九一八年から二〇年の間に書いた短編をまとめたものである。

 『受難像』が幻想小説という趣を持ち、様式的にも実験的・前衛的であったのに対して、この『苦悩に満ちた物語』は一転して日常生活の細々した現実を題材とし、様式的にも(「法廷」を除いて)レアリズム的である。しかしながら、両方の短編集には、基本的に共通するものも多い。その共通点は第一に、「真実とは何か」を問いながら、人間にとって真実に至ることがいかに困難であるかを認識し、絶対的・独善的真実を否定して各人の相対的な真実を認めようとする、チャペックの「相対主義」である。『受難像』の幾つかの短編が哲学的に「相対主義」を示した幻想小説だとすれば、『苦悩に満ちた物語』の大部分の短編は人間の日常生活に即して「相対主義」を示したレアリズム小説だと言えよう。チャペック自身、『苦悩に満ちた物語』の出版の翌年の一九二二年に、この作品について次のように述べている。「『苦悩に満ちた物語』は、各人が真実を持っているというテーマに向かっている。ここで人間たちは、悪く、臆病に、残酷に、あるいは弱虫のように、一言で言えば重苦しく行動している。そして、肝心な点は、あなたは彼らのうちの誰をも非難することができない、誰にも石を投げることができない、ということである。この一連の短編がせめて少しでも成功しているなら、私は、裁かれるべき者は誰もいない、という苦しい印象に到達しているはずである。私は、人間の価値を貶めることなく、人間を屈辱と弱さにおいて示したかった。結局のところ、これもまた、人間と人生の評価の試みである。完全さの極致や、高尚で偉大な魂や、絶対的な真実や、超人的な理想や、その他の同様の事柄を描く者たちがいることを、私は知っている。けれども、もしもその完全さの高みからは、私が出会う最初の隣人の人生が、私にとってなおさら無価値で矮小で救い難く見えてくるとしたら、その完全さは何になるだろうか? 私に言わせれば、人間性自体、心の社会主義自体、人間愛自体が、無限の寛容によって養われなければならないのだ。我々にとって――カントによれば――人間が、つまりあらゆる人間が、手段ではなく目的であるためには、自分の心と自分の脳から、あらゆる暴力を取り除かなければならないのだ。我々の理想や真実や布教や評価には、あまりにも多くの暴力がある。そして、あなたがこの暴力性を振り落としたいと思うと、それは奇妙なことにニヒリズムや否定主義と見なされるのだ。それは、今日の文明に特徴的なことである」

 このように、『苦悩に満ちた物語』は、神なき時代における絶対的真実の不在――というよりもその不可能性――と独善的真実の積極的な否定、その結果としての、様々な相対的真実の間での不可避のジレンマ、そのジレンマの中での人間の苦悩と弱さ、人間を弾劾し裁くことの困難さなどを描いた作品と言えよう。この点で典型的なのは、「お金」という短編である。ここには、絶対的に正しい人間はいない。主人公の二人の妹は――そしてまた義弟も――少しずつ罪があり、少しずつ真実がある。そして、主人公のイジーは、お金の魔力によって相対的な真実と虚偽の迷宮に幽閉されており、苦しいジレンマの中で酷たらしい選択を迫られる。彼はこのジレンマからうまく逃れることができずに、結局はすべてを否定してしまうが、その自らの否定にも苦悩せざるを得ない。

 チャペック自身が言うように、確かに、『苦悩に満ちた物語』には人間の「弱さ」が描かれている。つまり、この小説の中の人間たちは、自らが巻き込まれているジレンマをうまく解決することができないのである。というよりもむしろ、チャペックは意図的に「解決」を避けて、相対的な諸真実のジレンマの中での人間の苦悩という、ある意味で普遍的な実存の一側面であり、赤裸々な人間の実相であるものを、短編小説の中に芸術的に見事に――ジレンマのもたらす高度な緊張感と共に――形象化しているのである。我々はこのような人間の実相を凝視する必要があると、チャペックは言いたいのだ。「完全さの高みからは、私が出会う最初の隣人の人生が、私にとってなおさら無価値で矮小で救い難く見えてくるとしたら、その完全さは何になるだろうか」とチャペックが言っているように、絶対的な真実や超人的な理想だけを追うならば、「真実」や「理想」は人間一般への軽蔑と嫌悪に転化し、人間に対する暴力となる危険がある。そもそも絶対的な真実は人間には到達できないという立場に立つならば、相対的な諸真実の間でのジレンマゆえの苦悩は、人間には避けられない、避けてはならないものであり、この意味での受苦は人間の宿命である。そしてチャペックの「相対主義」は、このような受苦を通して人々の相対的真実を許容しようとする「寛容」の重視と、人々の相対的・断片的な真実の相互交流のうちにより高い真実に至る道を求める立場に繋がるのである(これは特に、後の『ホルドゥバル』『流れ星』『平凡な人生』という三部作において示される)。その意味で、もしもこの作品の「ペシミズム」を非難するとしたら、その非難は的外れであろう。チャペックは、ジレンマの「解決」にではなく、ジレンマそのものとその中での人間の苦悩に焦点を合わせているのである(『苦悩に満ちた物語』という題名は、ここに由来する)。チェコの美学者ムカジョフスキーが指摘しているように、『苦悩に満ちた物語』に示されたようなジレンマ・矛盾は、チャペック以前の文学においてもしばしばテーマとされてきたが、チャペックの新しさは、その矛盾を最終的に解決することをしないで、その矛盾を動かない二つの岸に――その間を物語が流れる不動の両岸に――していることである(もちろん、この作品において、相対的な真実と虚偽の迷宮からの出口が見えないことが、非常に重苦しい印象を与えることは確かである)。

 真実の相対性の提示は、視点の複数性と価値評価の相対性を伴う。つまり、この作品においては、同一の物事が複数の視点から見られて異なる価値評価を与えられ、読者による人物や事件の解釈も矛盾した複数のものが可能なように、物語が構成されているのである。ムカジョフスキーはこれを主として「外的」な視点(世間の、通常の、因習的な見方)と「内的な」視点(小説中の人物の内面からの見方)としている。例えば、「城の人々」のオルガは、「外的」に見れば、自分の貧しい家族が提供しうる境遇よりも遥かに良い境遇で貴族の家に住む家庭教師だが、同時に「内的」に見ると、雇い主に容赦も言い訳もなく卑しめられる誇り高い存在である。「お金」のイジーは、「外的」に見れば、困っている自分の妹たちに援助を与えることを拒否する孤独な小官吏だが、同時に「内的」に見ると、人のために献身することを望んで、自分の周囲の貪欲さに傷つけられる、弱い人間である。「シャツ」の主人公は、「外的」に見れば、家政婦の盗みを見つけて激怒する主人だが、同時に「内的」に見ると、孤独を恐れる、年取った気弱な男やもめである。「法廷」の主人公は、「外的」に見れば、死刑を宣告する厳格で冷淡な将校・裁判官だが、同時に「内的」に見ると、死刑判決に対する道徳的責任の恐れに震える人間である。

 こうして、『苦悩に満ちた物語』は、「外的」な視点からは見えてこない、人間の内面の、いわば隠れた真実の存在を感じさせることになる。「二人の父」の主人公は、「外的」に見れば、妻を寝取られ、妻と間男との間にできた子供を溺愛する滑稽な男だが、しかし彼が「その陰鬱な愛情のすべてを娘に傾け」ると、「この小さな町の人々は、おかしな服を着せられた、おずおずとした蒼白い少女を、彼がひんやりとした家から広場に連れ出すのを目にしたとき、果たして笑ったらいいのか憐れんだらいいのか、もはや分からな」くなる。つまり、ここには、(自分の子供でない)娘への真摯で真実な愛情とそれ故の悲劇が、氷山の一角のように見え隠れするのである。「傷心」のカレルは、「外的」に見れば、不当な叱責に傷ついて辞表を提出しようとする謹厳実直な官吏にすぎないが、自分の生活や仕事や世界への疑惑に満ち、未知のものを探究する不可解な彼の内面を、弟のヴォイチェフは垣間見る。「冷酷漢」のペリカーンは、「外的」に見れば文字通りの「冷酷漢」だが、彼の内面の妻への愛情とそれ故の苦悩を、妻も恋人のイェジェクも知らない。「三人」のマリエは、「外的」に見れば、確かに夫を裏切った不貞の妻だが、世間の不当な侮辱ゆえの彼女の苦しみや、夫ばかりか恋人までが彼女に与える耐え難い嫌悪感を、誰も知らない。そして、ペリカーンやマリエは加害者なのか被害者なのか、読者には単純に割り切ることはできない。

 こうして、いわば「舞台裏」に、あるいは「水面下」に隠された真実というものが、『受難像』と『苦悩に満ちた物語』との第二の共通点として挙げられる(もっとも、前者ではそれは読者にもほとんど隠されているのに対して、後者ではそれが読者にはかなり明らかにされているという違いはあるが)。人間が知っている事実は、氷山の一角のように常に断片的なものにすぎない。そして、その断片的な事実の裏に隠れた真実が存在する可能性が常にあるのである。それを無視して絶対的な真実を主張したり、(相対的なはずの)自分の見方を当然視して疑わないとしたら、それはなんという傲慢さであろうか。そして、それは人間に対するなんという不当さであり暴力であろうか。――チャペックはこう言いたかったのではなかろうか。そして、それに気づくために、我々は「苦悩に満ちた物語」を経験しなければならないのである。

 なお、翻訳にあたっては、一九八一年に出版された、チェコスロヴァキア作家同盟版の『カレル・チャペック作品集』第一巻を底本とした。


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